3月15日
受難節第4主日
復活前第3主日
マルコによる福音書 15章1-15節(新約P.94)
説教 平良愛香牧師
「ポンテオ・ピラトって誰?」
ある人がこんなことを言っていた。「2000年近くも毎週毎週、悪口を言われるピラトが気の毒だ」。一理あると思った。イエスを苦しめたから毎週ののしられる、というのは正当なことなのだろうか。実際に聖書を読むと、福音書によって記述は異なるものの、イエスを釈放しようとしたことや、イエスの処刑に関わることを拒否しようとしたことすら書いてある。にもかかわらず、ここまで1500年以上も非難されるのはなぜなのか。キリストに有罪判決を出したからなのか。
そうではない。また私たちは、自分たちの「罪責」を逃れるために、ここでポンテオ・ピラトの名を出しているのでもない。かと言って「イエスを苦しめた人の代表」としてピラトの名前を出しているというわけでもない。実はここにピラトの名前が出てくるのはとても大きな意味があると思う。それはイエスは「国家権力によって苦しめられた」ということ。ピラトは「すべての罪人の代表」ではなく、「権力の代表」としてここに名前が残ったと言える。
私たちが使徒信条を読む際に「イエスがポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と唱和するのは、ただの歴史をたどっているのではなく、イエスは国家権力によって苦しめられた、ということの確認であり、そしてそれは、後の教会や信仰者がやはり権力によって苦しめられる覚悟を示唆しているということでもある。これはとても厳しい。キリスト教が国教になって国家によって守られたとき、あるいは多数者(マジョリティ)になって何の弾圧も受けなくなったとき、それはイエスが経験したこととは違う状態になっていると言える。
世界中ではキリスト教が弾圧される国もあろう。逆に、キリスト教が強者になってマイノリティを弾圧する側になっている国もないとは言えない。日本はどうだろうか。キリスト教が国から弾圧を受けないことは喜びではあるけど、もし国が私たちの望む方向と違う方向に動き出した時、しっかりと否を突き付けることができるだろうか。国に守られる宗教ではなく、弾圧を受けることを覚悟で行動する宗教でないといけないのではないかと思う。そして「今はどうだろうか」ということも問われているのだと思う。
「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」というのは、国家権力によって苦しめられたイエスを、私たちは主と告白する、ということに他ならない。