2月8日
降誕節第7主日
ヨブ記 12章1-6節(旧約P.832)
説教 平良愛香牧師
「全能の父なる神とは」
全能。神はすべての力を持っていて、不可能なことがないという意味の言葉。でも実は丁寧に考えないといけない。内村鑑三は学生時代、友人と「神は自殺をすることができるのか」という議論をしていたとのことだが、「全能」というのは「神にできるかできないか」ではない。神の憐れみ、被造物に対する愛は、何者も損なうことができない、という意味。神の愛こそが全能であると言ったら、ちょっとわかるかもしれない。
ドイツの神学者ドロテー・ゼレは、ホロコーストが起きているときに、全能の神はどうしてそれを止めなかったのかということを真剣に追及し、「神は全能ではないのではないか」と語った。「神はホロコーストを止めることができるのに、止めなかったのではなく、止められずに泣いていたのではないか」と。そして「全能の神」ではなく「人間の手しか持っていない無力な神」と言った。
戦争や災害で多くの人が犠牲になっているとき、あるいは、自分や身近な人が不条理な苦しみに遭っているときに、きっと神は泣いているのではないかと私は思う。そして「それを乗り越える力を送るよ」と言っているのではないかと思う。「泣くこともできる神」「こんなに頼りない人間を、それでも信用し続けることができる神」「ちちんぷいぷいと魔法を使うことはできないけど、人間に勇気と希望と力を惜しみなく無限に、無駄に思えたとしても送ってくれる神」という意味で「全能」と使うなら、ちょっと「全能の神」と呼んでみたくなる。
ヨブ記は、こんなに誠実に生きているのにどうして私は苦しまないといけないのか、ということがテーマになっている。それに対して神は明確な答えは出していない。ただ、ヨブは「にもかかわらず、やっぱり私たちを包んでいる神がいる」ということに気づいて、「全能の神」と語り掛ける。
では「父なる神」はどんな意味だろう。それは「私たちを造り、はぐくみ、愛し、守り導いている方」「決して私たちを見捨てない方」という意味だった。けれどやはり、神=父親という図式は、父権性を固定化する要因となった。「父親は私たちが逆らってはならない存在である」という、「圧」を感じてしまうし、力関係を固定化してしまう原因になっていると感じる。「父」の権威性で苦しんできた人たちに「父なる神はそういう意味じゃないよ」と言ってしまうことで、苦しんでいる人に寄り添うのではなく、キリスト教を弁護してしまうことになりかねない。
習った神の呼び名をそのまま受け入れてしまうのではなく、「では私にとって、どういう神なんだろうか」と考え続けていきたい。