4月28日
復活節第5主日
ヨハネによる福音書 15章26-27節(新約P.199)
説教 平良愛香牧師
「神から遣わされる弁護者」
ヨハネ福音書15章7節には「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」という有難い言葉がある。そして思う。この言葉が本当だったらどんなにいいだろう。
私たちの生きている瞬間、望んでもかなわないことのほうが圧倒的に多いのかもしれない。それに対して、「神はそれを望んでいない」とか、「あなたの信仰が足りない」と言われたとしたら、少なくとも私は「はい、そうですか」とは言えない。「神さまどうして?」と思うし、望んでもかなえてくれない神ならいらない、とすら思う。
私の友人であった矢島祥子(さちこ)さんは、人を助ける仕事をしたいと言って医者になり、日雇い労働者の街として知られる大阪・釜ヶ崎の診療所で働いていたが、2009年11月のある日、突然遺体で見つかった。警察は自殺だと断定したが、関係者は「事件に巻き込まれた可能性が高い」として今でも情報を集めている。葬儀の際、式を司った本田哲郎神父がこう言った。「祥子さんが亡くなったのを神さまのご計画だと言ってはなりません。神さま何で!どうして?と私たちは叫び、問い続けないといけないのです」。
ではヨハネ福音書の言葉は空虚なのか。15章はそこでは終わっていない。ぶどうの枝としてわたしにつながっていなさい。つながる、という言葉がたくさん出てくる。わたしは命がけであなたとつながっているのだから、あなたがたもそれを忘れるな、そういうメッセージとなっている。
戦時中、「天皇は神ではない」と信仰を表明して捕らえられ、死んでいったキリスト者たちがいる。きっと「神よどうして!」という叫びがあっただろう。けれど同時に「私は神からくる特別な弁護者、聖霊がついているのだ」という希望があったに違いない。牢屋からは現実的に解放してくれなかったとしても、「私は一人ではない。神が共にいる。神からの特別な霊、聖霊が弁護者として支えてくれている」という確信の中で、失望ではなく、残る人々に未来を託して行ったのではないだろうかと思う。
先日93歳で亡くなった友人のお見舞いに行った人が、「何か欲しいものはありますか」と尋ねたら、「へいわ」と答えたとのこと。どんなに平和が遠く感じても、どんなに人間の愚かさに打ちひしがれそうになっても、どんなに自分の無力さに苛まれても、それでも神はつながっていてくださっている、平和の実現の約束はついえていない。真理の霊、弁護者としての聖霊が私たちに力を与え、知恵と希望を与え、平和を実現させてくれる。