礼拝説教要旨「湖へのダイブ」(ヨハネ 21:1-14)

4月14日
復活節第3主日

ヨハネによる福音書 21章1-14節(新約P.211)

説教 平良愛香牧師
「湖へのダイブ」

 

イエスが復活して弟子達に前に現れたという伝承は二つあったと言われている。一つはエルサレムでの再会、もう一つはガリラヤでの再会。ヨハネ福音書は20章で一旦閉じた後、もう一つの伝承であるガリラヤでの再会を付け加えるために、つじつまを合わせて「イエス様はエルサレムで弟子達に現れた後で、今度はガリラヤで現れたのです」と説明した。けれど今回は、エルサレムでの再会がなかったものとして読んでみたい。

どうしてこの弟子達はガリラヤ湖にいたのか。もちろんそこがふるさとだったからとも言えるが、イエスと一緒に活動したところに、いつしか戻ってきてしまったとも言える。イエスを失った喪失感。イエス様に死んでもついていくと宣言までしていたのに、結局イエスを見捨ててしまった後悔、罪悪感、自分のふがいなさを突きつけられガリラヤ湖に来てしまった。その夜は魚が全く獲れなかった。

そんな時、誰かが岸で声をかける。「船の右側に網を打ちなさい。そうすれば獲れるはずだ。」弟子達は、声の主が誰だか気づかなかった。暗かったのか遠かったのか、失望が大きすぎたのか。しかし弟子達が言われたとおり網を打つと、おびただしい数の魚が網にかかった。一人の弟子が気づいて叫んだ。「主だ!」それを聞いて、ペトロが服を着て湖に飛び込み、泳ぎ出した。イエス様に1秒でも早く近づきたい。イエス様、あなたに会いたかった。あなたに謝りたかった。あなたに許してもらいたかった。あなたにしがみついて泣きたかった。そんな思いで湖に飛び込んだのではないか。

実はペトロはイエスを3回「知らない」と言って裏切ったまま、この日を迎えている。岸にいるのがイエスだと気付いた瞬間、本当なら、恥ずかしさで隠れたいと思うに違いない。けれどペトロは違った。自分の過ち、自分の不完全さ、自分のダメさ、愚かさ、それを抱えたまま、湖にダイブした。イエスが自分を許して受け入れてくれるか、そんなことは考えていない。無我夢中でイエスに近づくために飛び込んだ。

復活のイエスに再会した弟子達。「弟子達はだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」

イエスは、信仰深い人を受け入れたのではない。失敗しなかった人を良しとしたのではない。こんなダメな私でも、復活して共にいてくださる。ペトロのダイブはその証しだった。私たちももう疑わない。もう不安の中に残されたりはしない。一緒に食事をし、共に生きているのが主であることを知っているから。

 

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