3月29日
受難節第6主日
棕櫚の主日
マルコによる福音書 15章33-47節(新約P.96)
説教 平良愛香牧師
「死んで葬られ、陰府(よみ)にくだり」
イエスが「死んで葬られた」ということは聖書に記されているが、陰府にくだったということは名言されてはいない。使徒信条のもとになった2世紀後半のローマ信条にはこの「陰府にくだり」は入っておらず、のちに使徒信条が整えられた時に加えられた部分の一つ。
ただ、イエスが「死んで葬られ」「陰府にくだった」という言葉は、のちのキリスト者たちに大きな慰めを与える言葉となっていった。それは、イエスが肉体を持った存在であり、われわれと同じ人間になったのだ、ということ。イエスは死ななかったのではなく本当に死んで葬られた。人間が一番恐れている断絶である「死」によって、社会から完全に断絶させられたのだ、ということ。イエス自身が肉体の苦痛を味わい、死の恐ろしさを味わった方である。私たちがこの地を去るときも共にいて下さる方であるということ。
キリスト教でも仏教でも、「地獄の話は、私たちが誠実に生きるよう、ちょっと加えられた脅しなのだ」と説明されることがある。けれど逆にこのようにも考える。今の状況があまりにも苦しいとき。生きていても地獄だと感じるとき、あるいは早くこの世を去りたいと思ったり、それでも天国に行く自信がなくて不安でしょうがなかったりするとき。そこにイエスがいるのだ、と。
これは、「生きている苦しみや死後のことを心配するのは馬鹿げている」ということではない。不安だよね。怖いよね。心細いよね。どうしようもないよね。それを否定するのではなく、同じ苦しみをイエス自身が経験した、ということ。そこにイエスがおられるということ。私たちの苦しみ、不安を完全に理解し、共にいて下さるイエスがいるということ。これは私たちの慰めに他ならない。
同時にそれは、あきらめて現状の苦しみを受け入れよということとも違う。今苦しいよ。そこから逃れる道を示してください。その声を、イエスは聞き取ってくださっている。「死んで葬られ、陰府にくだり」というのは、そういう方を私たちは、友であり、神の子、主イエスとして信じていいのだと思う。そういう方とこれからも出会い続けていくのだと思う。