3月8日
受難節第3主日
復活前第4主日
ルカによる福音書 1章46-56節(新約P.101)
説教 平良愛香牧師
「おとめマリア?」
使徒信条ではイエスはマリアから生まれてすぐに、受難になっている。その間にイエスが何をしたのか、ということがすっぽり抜けている。人々と出会って、教えたり、いやしたり、様々な奇跡を起こしたり、泣いたり怒ったり。でもいくら古の教会が「マリアから生まれたことと、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けたことが重要なんです」と言ったとしても、その間のことが重要ではないとはとても思えない。
おとめマリアからイエスが生まれたというのは、マリアが特別清い人だったということではなく、「人間がイエスを産んだ」ということ、すなわちイエスは人間として生まれたということ。ただすごいなあと思うのは、マリアが天使から「あなたは神の子を産む」という宣言を受けたとき、戸惑ったけど、最終的に受け入れた。もしかしたら受け入れるのに何日ももがき苦しんだのかもしれない。そして、のちに「誰の子を産んだのか分からない女性」と周りから非難されるかもしれない。けれどそれを受け入れた。そのときに歌ったのが、「全身全霊で神を偉大だとたたえる」と歌ったマリアの賛歌。
実はこの歌は結構すごいことが書いてある。力ある方が、わたしに偉大なことをなさった、という宣言の中に、それまでの社会の価値観をひっくり返すようなことを語り出す。神が「力を振るい」「打ち散らし」「引き降ろし」「高く上げ」「満たし」「追い返し」「受け入れ」「忘れない」という激しい言葉がたくさん用いられる。神はただ座って人間を眺めているのではなく実力行使をする存在である。しかも、小さい者、弱い者、蔑まれている者、排除されようとしている者、苦難と悲しみの中にいる者には、愛、慈しみをもって行動するだけでなく、尊大な者、強い者、権力のある者、富める者、圧迫をする者、虐げる者には、正義をもって打ち散らし、引き降ろし、追い返すという。
不条理な社会の中で、「神は見捨てない」と信じたマリアの信仰。イエスはそういったマリアの子として生まれ、そして使徒信条には書き残されなかったけど、やはり小さい者、弱い者、蔑まれている者、排除されようとしている者、苦難と悲しみの中にいる者に対して、愛と慈しみをもって行動した。「おとめマリアより生まれ」という一文を読むとき、マリアが経験した神の実力行使を、イエスが行動に現わしたことを感じる。