1月11日
降誕節第3主日
創世記 6章5-13節(旧約P.8)
マタイによる福音書 24章36-44節(新約P.48)
説教 木村光寿牧師
「目を覚ましていなさい」
このマタイによる福音書において、ノアのことが記されております。38節において、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。」とあります。つまり、主イエスはあるべき姿に気づかず、眠り込んで生きている者として、ノアの周りにいる者たちを見つめているのです。そんな彼らの姿について、創世記の6章11,12節では次のように記されています。「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地をご覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。」
ここで、「堕落」という言葉が三度記されておりますが、この「堕落」とは「破壊する」という意味です。この堕落を「破壊する」という意味でこの聖句を訳すと次のように訳になります。「この地は神の前に破壊されていた。神は地をご覧になった。それは破壊されており、すべての肉なる者はこの地を破壊して歩んでいた。」私たちは神にいのち与えられた者であり、神の御声に従って歩むのであれば、神の恵みに養われ、心に喜びと平安が与えられて生かされるのです。しかし、神の御声に耳を閉ざすとき、神との関係を破壊してしまうのです。また他者との関係をも破壊していくのです。
そのように神に背き、享楽的に生きているノアの周囲の人たちに対して、神様は審きを宣言されますが、そこにノアが登場します。ノアについて創世記は次のように語っております。「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」とあります。ノアは「神に従う無垢な人であった」とありますが、これは「義人」であるということと、「非の打ち所がない」という単語が用いられております。この「義人」とは、道徳的に優れているということではなく、神様との正しい関係の中で生きていることを指します。また、「非の打ち所がない」とは、完全である、ということです。つまり、ノアは、神様と正しい関係の中で生き、その関係は完全なものだった、ということです。そして、「ノアは神と共に歩んだ。」とありますが、これは神様へ信頼を寄せて、日々を送った、ということです。
主イエスは「目を覚ましていなさい」と命じられましたが、目を覚ましているとは「あるべき姿に目を向け続ける」ことです。あるべき姿とは、私たちは神様の被造物である、ということです。神様がこの世界を創造され、神様が私たちにいのちを与えられ、神様によって私たちは養われ生かされているのです。私たちは創造主であり全知全能である神様のことを崇めることが求められているのです。神様の語りかけを聴き、神様に従い、神様へ信頼を寄せて、神様と共に歩むことが求められているのです。それが被造物である人間の務めなのです。それが人間のあるべき姿です。私たちは神に目を向けて、神の御言葉に聞き従って歩むときに、神や人との関係を築き上げる者とされるのです。