礼拝説教要旨「天に昇る」(使徒 1:6-11)

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4月12日
復活節第二主日

使徒言行録 1章6-11節(新約P.213)

説教 平良愛香牧師
「天に昇る

 

復活したイエスが40日後に天に昇ったという弟子たちの証言について、4つの読み方ができると私は感じている。

1つ目は、イエスが見えないところ、遠いところに行ってしまったということ。イエスが天にあげられるのを弟子たちがいつまでも見つめていたというのは、置いてけぼりにされたと感じた弟子たちの不安感を表しているのかもしれない。「もうイエス様に顔向けなんてできない」と感じている弟子たちを赦して共にすごした40日間、弟子たちはどんなに励まされ、力づけられただろう。しかし勇気づけられた弟子たちから、再びイエスが離れていく。そこには大きな悲しみが伴った。イエス様。私たちの手の及ばないところに行ってしまわれたのですね、と。

2番目は「すべてを見渡せるところ」としての天に昇ったという読み方。イエスが天に昇ったというのは、絶対に私たちを見失わないところにイエスはおられてずっとつながっている。イエスが天にあげられた後、しばらく気落ちしていた弟子たちは、のちに聖霊降臨の出来事によって、イエスが共にいるのだということを実感して勇気を取り戻し、いやそれまで以上に力を得て語り始める。

3番目。イエスは「高いところ」に昇られたという読み方。人間の領域ではなく、神の領域に行ってしまった、とも言えるかもしれない。けれどもっと広い意味を感じる。その前イエスは「よみにくだった」ことを思い出したい。天を高いところだと言うなら、イエスはその直前まで低いところも経験したということ。すべての領域をイエスは経験したということ。地上にはいないということではなく、すべての領域にイエスはおり、当然地上にもいると読むことができる。いまも一緒にいるということ。

そして4番目の読み方。イエスだけが天に昇って行ってしまったということではなく、私たち一人ひとりも主イエスと共に天に上げられるということ、原始教会ではそのことを大切にしていた。イエスは遠くに行ってしまったということではなく、最終的にはその領域に私たちも昇っていくのだ、ということ。それはこの地上を捨てるということではなく、天をも領域としているイエスと私たちは共にいる、私たちもそこに属する存在となるのだ、ということ。

イエスの「天に昇り」は、わたしたちが人の領域とか神の領域とかの線引きを越えて、イエスと共に歩むことのスタートでもある。

 

 

 

お知らせ

*4月5日(日)はイースター記念礼拝です。礼拝後ささやかな祝会を催します。どなたでもどうぞ。

*出会いのグループの開催日時が変更になり、2025年6月から第5日曜になりました。スタート時間は12:30です。次回は2026年3月29日です。

*教会員のみなさまには献金当番をお願いしています。受付ボードに担当日の一覧表が貼ってあります。ご確認ください。

*教区、地区集会のご案内が届いています。教会の受付または集会室入り口のチラシラックをご覧ください。

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