3月1日
受難節第2主日
復活前第5主日
ルカによる福音書 1章30-35節(新約P.100)
マタイによる福音書 1章18-20節(新約P.1)
説教 平良愛香牧師
「聖霊によりて宿り?」
使徒信条では、イエスがマリアから生まれるという話のときに、突然聖霊が出てくる。ここは三位一体の一つである聖霊ということではなく、むしろ「イエスが生まれたのは、神からの特別な計らいによるものだった」ということを言っている。
では何が特別だったのか。「マリアが処女だったにもかかわらず、聖霊によって身ごもった」ということを、非科学的な奇跡として言いたいのではなく、「一人の人間が、神の子を産む」ということこそが、神の特別な計らいによるものであり、特別な力、聖霊によるものだった、ということを言おうとしている。
マリアの処女性をカトリック教会ではとても大切に考えているが(そしてプロテスタント教会もその影響は少なくないが)、むしろプロテスタント教会ではマリアが処女のまま身ごもったかどうかではなく、一人の人間が、神の子を身ごもったことそのものが奇跡であり、神の驚くべき計らいであり、そのために、聖霊が働いたのだ、ということを大切にしている。非科学的どころか、ありえないことが神の側の計画で実現した、ということ。それこそ驚くべき、聖霊のなせる業だった、ということ。
マリアはそれを受け入れる。今日の二つの聖書箇所は、マリアだけでなく、ヨセフもそれを受け入れ、信じたということ。すごい物語だなあと思う。
「じゃあ、やっぱりマリアが宿した赤ちゃんイエスは、人間ではなく神の子なのか」。そうではない。完全に人間だった。私たちは、イエスが神の子であると同時に、100%人間であったことも知っている。ではイエスが神の子である、ってどういうこと?
今私が感じているのは、イエス自身は自分がメシアだとか、神のひとり子であると思っていなかったのではないかということ。ただ、神が自分をそこはかとなく愛している、ということを確信していた。だから神を「父」と呼べたし、自分が「神に愛されている子である」ということを示すことができたのではないか。
イエスがどういう意味で神の子であったかどうかは、それぞれの信仰、イエスとの出会いの中で感じ取っていい。ただイエス自身は、自分が神の愛する子であるという確信のもと生まれ、成長し、それを人々に語る者として生きた。そのような意味で、やはりイエスは「特別に神の計らい、聖霊によって宿った子」と言うこともできるんじゃないかなとも思う。私たちが出会っていくイエスは、神の特別な計らいでこの世に登場した。そのために聖霊によってマリアの胎内に宿ったと言っていいのではないだろうか。