2月22日
受難節第1主日
ヨハネによる福音書 21章15-17節(新約P.211)
説教 平良愛香牧師
「我らの主?」
使徒信条には「我らの主、イエス・キリストを信ず」という言葉が出てくるが、神に対しては「主」という言葉が一度も出てこない。主なる神と祈ることは多いのに、使徒信条ではイエス・キリストだけが「主」である。なぜ?
「全能」の「父なる」神を「主」と呼ぶときと、キリストを「主」と呼ぶときは、実はニュアンスが違う。旧約聖書が書かれたヘブライ語では、神という単語「エル(複数形はエロヒーム)」は一般名詞だった。だからほかの神々と区別するためには固有名詞が必要だった。ところが神の名をみだりに呼ぶことが許されていない。そこで神の固有名詞には音韻記号をつけず、YHWHにあたる4文字が記された。そしてそれを音読する際は、「主」を表す「アドナイ(実際に神をアドナイと呼ぶこともある)」の音韻記号を付けて発音した。そのため、その後YHWHは「主」と訳されるようになった。けれどYHWHはあくまでも神の固有名詞であって、「主」という意味はない。ただいつしか、「神さまは私たちを支配する方」というイメージで「主なる神」が定着した。
一方、イエス・キリストを「主」と呼ぶとき、そこには「支配・被支配」「主人と奴隷」という意味合いはなかった。今日読んだヨハネ福音書でペトロがイエスを「主よ」と言ったとき、それは「親愛なる師匠」というぐらいの意味だったのではないかと思われる。別の箇所ではイエスが受難の予告をしたときに、ペトロが「主よ、そんなことを言ってはいけません」とたしなめる場面も出てくる。けれど後の福音書記者は、ペトロがイエスを「主」と呼び続けることを重く受け止めて記録に残したと言える。それは、福音書が書かれた時代、「主」は皇帝に対する称号であったことに気づかなければならない。そして使徒信条でイエスを「主」と呼ぶことは、「皇帝は主ではない」という告白に他ならなかった。
現在私たちが生きる世界で、何を私たちは「主」とするのか。富か、権力か。利権争いの中で、人々が苦しめられている。戦争も「いのち」より「国(の利権)」を「主」としたことで起きている。差別も一部(あるいは多数者)の利益を享受するために、弱者を抑圧して起きている。その中で私たちがイエスをキリスト「油注がれた者」こそ「主」であると告白するのは、イエスを「権力者」として持ち上げるためではなく、イエスに示された神の愛以外を権力と認めない、という意味がある。