2月15日
降誕節第8主日
ヨハネによる福音書 3章1-17節(新約P.167)
説教 平良愛香牧師
「その独り子」
ヨハネ福音書3章16節で「ひとり子」という言葉が使われているのは、「ひとりしかいないわが子を、人間に与えた」という、人類に対する愛を強調したメッセージと言うこともできる。「ひとり子」という言葉が出てくるごとに、「神がどれだけ私たちを愛したのか」ということを突き付けられるし、同時にそのことによって、私たちも神の子とされたのだ、ということにつながってくる。
しかし改めて使徒信条を読んでいて、ふと考え込んでしまった。私はイエスを神のひとり子として本当に信じているのだろうか。そもそも、神さまに子どもがいるの?私たちがイエスを「神の子」と呼ぶとき、神さまに子どもがいたことを信じていると言っているわけではないだろう。イエスが神の子であるかどうかというのは、実はうのみにする話ではなく、とても大きな問題。もちろん、「よく分からないけど、聖書がそう言っているし、キリスト教がそう教えているから、イエス様は神の子です」と素直に信じる信仰もある。
その一方で「神さまが創造主であることは信じられるけど、イエスが神の子だと信じることはできない」と言う人もいる。「イエスが神さまのことをとても理解していて、神を愛し、愛されていた存在だとは信じるけど、三位一体としては信じられない」と言う人もいる。「イエスが神の子だと信じられないなら、それはキリスト教信仰ではありません」と説明する教会もきっと多いだろう。けれど改めて、イエスが神の子であるとはどういうことなのか、考えてみた。
イエスが洗礼を受けたとき、天から声があって「これは私の愛する子」という声が聞こえたと聖書にしるされている。この言葉を「神の子である」と根拠にすることもできる。でも聖書を読んでいると、私たち一人ひとりも「神の子とされている」ということに気づく。「これは私の愛する子」と神がイエスに言ったとき、「ほかの人間は神の子ではないけれど」という意味ではなかったと思う。イエスを特別に神の子として宣言した神は、このイエスを通して神を見出しなさい、あなたたちも神の子として神を証ししなさい、そういうことを伝えようとしているのかもしれない。拡大解釈だろうか。でも、「神のひとり子」としてのイエスを告白するとき、「それほどに神はイエスを愛し、私たちをも愛している」ということを読み取ってもいいのではないかと思う。