2月1日
降誕節第6主日
イザヤ書 45章2-8節(旧約P.1135)
説教 平良愛香牧師
「天地の造り主とは」
今週から使徒信条について、少しずつ読んでみたい。
使徒信条とは、2世紀に作られたローマ信条というものを改定したもので、4世紀ごろから西方教会(まだカトリックとプロテスタントが分かれるずっと前)で用いられるようになった。でも「我は信ず」と言いつつ、ここに書いてあることをすべて信じることができない、という人もいるし、大切なことが言い表されていないからこの使徒信条は不完全だ、納得がいかない、という人もいる。内容には問題が無いとはいえないけれど、大切なことを告白している文章として1600年も唱えられてきたのだろうと思う。
主の祈りと使徒信条の大きな違いは、「我ら」ではなく「我は」となっている部分。私は神と向き合います、という告白になっているという点。これは実は厳しい。信じているかどうかあやふやだけど、「我は神を信じる」と毎週唱えることで、ご利益があると思ったら大間違いであり、むしろ「あなた、神の名をみだりに唱えていますよ」と指摘されるのかもしれない。そう考えると、使徒信条は冒頭から口に出せなくなってしまう。
けれど使徒信条は「あなたの信仰」を問うものではない。私の誠実さ、私の信仰、私の「悔い改め」すらいい加減なものであることを前提に、神がこの告白をわたしにさせているのだと思う。そもそも、「私は神を信じます」と自信をもって言える人なんていない。「我は信ず」と言うのは、神の側に主体があるのだから、私の信仰心ではなく、神が私と関わり、つながり、共にいるのだ、ということがスタートになる。だから、「私、そんなに信仰深くないんだけど」と感じたとしても、「神がわたしと共にいる。わたしがどんなに信仰がなくても、私は孤独ではない」という宣言が「我は信ず」なのだなあと感じる。
次の「天地の造り主」について。これは単純に「神が天地を創ったという創造論を信じる」ということではない。「天は清くて遠く、地は汚いけがれた場所」「神は聖いところにいて、私たちと離れている」という考え方に、「否、そうではないよ。神様は天地を造り、私たちを造り、また今もつながっている神なんだよ」ということを語っているように思う。
「わあ、神さまってすばらしい世界を造ったんだな」と感じることがある。それは同時に、「神はわたしを造ったんだ」「いまも共にいて愛して下さっているんだ」と気づく瞬間である。