1月18日
降誕節第4主日
マルコによる福音書 1章14-20節(新約P.61)
説教 平良愛香牧師
「網とネット」
「悔い改める」という言葉は、ヘブライ語では「帰る」という意味。神の前に、神のもとに帰りなさい、ということ。反省しないとバチが当たるよではなく、「あなたがたが探し求めていたもの、その福音がここ、神のもとにあるよ。帰っておいで」と、イエスは喜びを伝えたのだと思う。
イエスはそれからガリラヤ湖のほとりでシモンと兄弟アンデレに声をかける。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。シモンたちは、家も家族も捨てたわけではないけど、「人間を取る漁師」とされて行動し始めた。人間を取る漁師とは何か。キリスト教徒にすることではない。「神の国は近づいた。あなたたちが望んでいたものが目の前にある。この喜び、この福音をいまあなたたちにふるまうから、あなたたちもそれに気づきなさい。近づきなさい。一心不乱につかみ取りなさい。そのために皆さんを囲い込みますよ。」そんな感じがする。
ネットワークと言ったとき、それは人々をつなぐ網となる。イエスが弟子たちに「人間を取る漁師にしよう」と言ったとき、それは人間を囲い込んで逃げられなくする網を言っているのではなく、人間を「つなぐための網(ネット)」を広げようとしているようにも読めてくる。イエスが弟子たちと共に打とうと語り掛けたのは、神と人、人と人との関係性をもう一度つむぎ、つなぎ合わせるための「網」だった。
「生きるのがつらい」と伝えてくる人がいる。「私には何ができるだろうか」と考えさせられる。そこに解決マニュアルはない。「教会に行ったら生きる気力が生まれますよ」なんて、そんな無責任なことは言えない。ただそこで感じるのは、「それでも私はあなたと繋がっている」と伝えることだけだと思う。
毎週のミャンマーを覚えるオンライン祈祷会で、ミャンマーの様々な状況を聞く。カンパを送ったりはする。けれど本当に何ができるのだろうと自分の無力さに苦しむ。そこで思う。日本の人たちが祈り続けてくれていることで励まさされているというミャンマーの人達がいる。無力なように感じても、それでも私はあなたと繋がっていることを伝えていこう、と。
私たちの生きる現実の中で、それぞれの場所で「網」を打つこと。それは「共に歩む」ということに打ち進んでいくということ。私たちは教会の中に留まるのでもなく、教会から押し出されていく。新しい一週間をそれぞれの場所で「網」を打つ働きをしていきたい。