8月2日
聖霊降臨節第十一主日
平和聖日
マタイによる福音書 5章1-9節(新約P.6)
説教 平良愛香牧師
「平和を実現する人は幸い」
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」で始まる9福の教えと呼ばれるイエスの山上の説教。しかし「みんな苦しいことがあっても、神さまが一緒にいるから慰めてくれるよ」と読むと「違うなあ」と感じる。
この9回出てくる幸いは、「誠実に、正しい生き方をしている人はご褒美がある」と言っているのではなく、苦しみもがいている人に対してイエスが呼びかけている言葉。「心の貧しい人」も単純に謙虚な人を指しているのではなく、自分の弱さ、足りなさにうちひしがれている状態だと言えるのかもしれない。「柔和な人」「憐れみ深い人」「心の清い人」も、「いい人」をほめているのではなく、やはり他者と生きようと苦しんでいる人を、神は決して見捨てない、ということを励ましているのではないかと思う。
同じような説教がルカ福音書の6章にもある。しかし「平和を実現する人々は幸い」は、ルカにはない。イエスが言ったけどルカが掲載しなかったのか、それとも、もともとなかったけど、マタイが掲載したのかは分からない。もしかしたらルカ福音書はローマの高官に向けて書かれた福音書なので、イエスの説教が「ローマこそ平和である」に抗う言葉だと読まれかねないと判断して削除したのかもしれない。しかしマタイは「平和を実現する人々は幸いである」と明確に残した。これは「平和を愛する人」でもなく「平和を祈る人」でもなく「平和を実現する人々は幸いである」という、精神論をぶち壊すほどのパワーのある言葉でもあった。
欧米のキリスト教の中には正義のためには戦争もやむを得ないと正戦論を語るクリスチャンが珍しくない。現在の日本の政府が言う「抑止論」という言葉を思い出す。戦争をしないために武力を貯える。相手が攻撃してきたら応戦できるように備える。相手が攻撃してきそうだなと判断したらこちらから先制攻撃をしてもいいことにする。それらを「平和の実現のために」と言うのかもしれない。けれどイエスが語ろうとした「平和の実現」って、相手を武力で抑え込み、ときには相手国を攻撃して殺しながら、自国を守ると言うことなのだろうか。日本はかつての戦争で、「それでは平和は守れない」ということを体験したのではなかったのか。
山上の説教を改めて読んだとき、幸いだと言われた「心の貧しい人」「悲しむ人」「義に飢え渇く人々」「柔和な人」「憐れみ深い人」「心の清い人」「義のために迫害される人」「ののしられ、身に覚えのないことで悪口を浴びせられる人」って、みんな「平和を実現するためにもがき、くるしんでいる人たちなのではないか」と思わされる。すべてを「平和を実現する人々」に当てはめるのは作為的かもしれない。けれど今回、この日本の状況、そして世界の状況を観ながら説教を考えたとき、この9福がすべて「平和を実現する人々は幸いである」という言葉につながっているように感じた。
平和を祈る者でありたい。平和を願う者でありたい。そして平和を実現する者として、もがき苦しむ者でありたい。そのもがき苦しみに、神は必ず報いてくださる。