7月26日
聖霊降臨節第十主日
コリントの信徒への手紙一 12章14-26節(新約P.316)
説教 平良愛香牧師
「弱さ自慢」
「身体は一つの部分ではなく、多くの部分から成り立っています。」目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えませんという、パウロの分かりやすい譬え。でも読むごとに新たに考えさせられる。目も大事だけど、手も大事な役割を果たしていると言っているのか。それとも「手が大事な役割を果たしていることを目も知っているから、そんなこと言えるわけがない」という意味なのだろうか。
けれど、実はこの譬えの中で、目は手に向かって、本当にお前はいらない、お前が居なくても俺がいればなんとなかなる、と相手をさげすんでいたのではないか、そんな譬えとしても読めるのではないかと思った。ある沖縄の牧師がこう言った。「先日、東京の牧師にこう言われちゃったよ。『申し訳ないけど沖縄はあまりに遠いので、中央の我々からはなかなか思いが至らないのです』と。」そうであれば、12章26節はどう読めばいいのだろう。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむ」
パウロはこんなことも書いている。身体はどの部分に対しても「お前は要らない」とは言えない。それどころか、身体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。この箇所も読むたびに考えさせられる。表面だけ読むと、「弱者がいることで、私たち強者は弱者に対する思いやりを通して、互いを大切にすることを学べるのです」と読めるかも知れない。実際にパウロはそういうニュアンスで書いたようにも思う。けれど本当にそうだろうか。
この箇所から読み取れるのは、弱者がいるから強者が思いやりを学ぶ、というのではなく、弱者がいる社会の中で、強者もまたそこから、「本当にみんなが一緒に暮らせる社会になっていない」ということに気づくということであるのだと思う。弱者のため、ではなく、すべての体のために、私たちは「一つの部分が苦しめば、すべての部分がその苦しみに気づく」のだと思う。それは弱い部分抜きの、強い部分だけで構成される体ではない。それはもはやキリストの体ではない。
強い者や頭のいい者だけが生き残る平和ではなく、すべての被造物が神の祝福のもとにあり、「社会情勢の中の困難さ」や、物理的な距離の困難さを乗り越える、一つの体の実現がある。共に苦しんでいこう、つながりあって行こうという思いが、イエスの与える平和を実現させていく。わたしたちの痛みが、わたしたちの弱さが、人と人をつなぎ、そこに神がいることに気づかせられる。その弱さを自慢したい。その弱さこそ大切にしていきたいと思う。