7月19日
聖霊降臨節第九主日
コリントの信徒への手紙二 6章1-10節(新約P.331)
説教 平良愛香牧師
「神さまが愛してくださるなら、なぜこんなに苦しむのか」
「聴く隣人たちのいるところ」という映画を観た。キリスト教愛真高校の1年間のドキュメンタリー。その中で一人の生徒がこんな話をするのが印象に残った。「神がわたしを愛しているなんて信じられない。愛しているなら、どうしてこんなに苦しまないといけないのか。」生徒たちはシーンと聴いている。先生たちもじっと聴いている。校長はじっとそれを聴きながら、少し震えているようにも見える。それは「あなたのその苦しみは正しい。その苦しみ、もがきの中で、神を見つけてほしい」という祈りであり、同時にその生徒の苦しみを一緒に苦しんでいるように見えた。
ユダヤ教のラビであるH.S.クシュナーが書いた「なぜ私だけが苦しむのか」という本がある。ほとんどの宗教(もちろんキリスト教も)が神を正当化し、弁護することにかまけていて、嘆き悲しんでいる人の痛みを和らげることを軽視してしまいやすい。「神さまは何らかの目的があって、あなたにそんな試練を与えたのだ」とか、「この経験はあなたにとって意味があるのだ」と言って、傷ついた心に追い打ちをかけてしまいやすい。それはおかしい、と著者クシュナーは言う。
この本の原題は「When Bad Things Happen To Good People」。「善良な人に悪いことが起こるとき」というタイトル。わたしたちは、悪いことをしたから不幸が訪れているのではなく、精一杯誠実に生きているにもかかわらず、困難や苦しみに直面する。
苦しんでいる人に、「あなただけが苦しんでいるわけじゃない」「あなたより苦しい人はいる」と言うのは大間違い。一方、「あなたが今経験しているのは、後のために必要な鍛錬なのです」というのも間違い。それらは自分で気づくことではあっても、他者が上から目線で言えることではない。
そんな中で今日与えられたコリントの信徒への手紙。本当にしんどいときに「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日」というのは腹立たしくすら思う。ただパウロがこれを語ったとき、飢えや暴力といった多くの苦難を経験していた。そして、そういった行き詰まりの中でこそ、神の力に頼るしかなく、そしてそれこそが「救いの日」であると語る。
「恵み」というのは私たちが何かを達成したときに与えられる報酬ではなく、神から無条件に与えられる「あなたを見捨てない、そばにいるよ」ということ。再び歩きだすことができるとは思えないような中に神が働く。その「恵み」に気づくのはずっと後かもしれない。けれど多くの不安、苦しみの中で、それでは私は見捨てられてはいない、私たちは一人ではないということこそが、「恵みの時」なのだと思う。