7月5日
聖霊降臨節第七主日
ガラテヤの信徒への手紙 5章2-11節(新約P.349)
説教 平良愛香牧師
「頑張るな」
ユダヤ教の影響を受けたキリスト教とイスラム教。キリスト教はパウロのおかげ?で割礼はなくなったけど、イスラム教の中には残った。アフリカの一部では女性の割礼として「女性器切除(FGM)」がある。多くの国が違法としているがアフリカのガンビアでは、2015年に廃止された「FGM」を復活させようとする動きがあるとのこと。アフリカの伝統を「野蛮だ」と言って西洋非難するのはおかしい。けれど、命を落とすほどのその伝統は本当に残さないといけないものなのか。特に女性を苦しめているという制度に、私は否を唱えたい。
ガリラヤの一部の人たちが「伝統的なルールも守るべきだ」と言ったのは、「救われるためにはルールを守ることも必要だ」と言ったのではなく、「救われているけど、守れるならルールも守るに越したことがない」といった意味だったのかな、とも思う。けれどパウロはそれすら否定した。どうして自分で点数稼ぎをしようとするのか。どうして救いに条件を付けようとするのか、と。この「救われているけど、ちょっとはいい点数を取れるよう努力したほうがいいかも」というのは、とても大きな誘惑。だから「頑張らなくてもいい」ではなく「頑張るな」が今日の説教題となった。
イエスが示した神の愛、神のあたたかさは、世の中の成績や評価といった物差しを脇に置いて(というより、廃棄して)、一人の人間として大切にされることに気づかせようとする。「自分はここで生きていてもいい」と思わせようとする。頑張らなくてもいい、いや、評価を得ようとして頑張ってはいけない。それがパウロが気づいた神の愛だった。
ただ、こんなことも感じた。「頑張れません」という相談が来る。「頑張れ」と追い立てる社会に中で疲れ果ててしまう。だから牧師として、あるいは校長として「頑張らなくてもいいよ」とよく言う。それでも「頑張れないことがしんどい」と訴えられると、もはや「頑張らなくてもいい」ではなく「頑張るな」としか言いようがなくなる。これって突き放しなんだろうか。そうでないといいな、と思う。疲れ果ててもう動けない状態であったとしても、そのままの姿で帰って来られる場所はイエスの腕の中だと思う。「イエス様、疲れました。抱きしめてください」と言っていい。そこに、無条件に抱きしめてくれる方がいる。頑張るな。委ねなさい。そう思う。