4月19日
復活節第三主日
エフェソの信徒への手紙 2章4-10節(新約P.353)
説教 平良愛香牧師
「神の右に」
使徒信条の「全能の父なる神の右に坐したまえり」という言葉は、イエスが神と対等な地位に上げられたということ。原始教会や初代教会が告白しようとしたことは、「主イエスこそ神の全面的信頼を受けている者であり、従ってイエスこそが全面的に神の権能を委譲された方である」ということだった。
それは「イエスって神様と同じ権能を持っているんだよ」という教えの押し付けにも感じるかもしれない。けれど、現在の私たちが使徒信条を読むとき、全く別のメッセージを読むことができるように思う。
パウロは、私たちもイエス・キリストによって共に復活させられ、共に天の王座に着かせてくださったのだと語る。イエスは私たちを置いて遠くに上って行ってしまったのではなく、私たちも共に天にあげられ、神の全面的信頼のもと、神と共にいるのだ、と。この信仰は文字通り、地に這いつくばって生きている人々にとって救いそのものであった。
「いま一番、地に這いつくばって生きている人たちってどんな人たちだろう」と考えてみた。ちょっとだけ沈黙して、私たちに届かないうめきに耳を傾けてみたい。
具体的にどこかのうめきを聴いた人もいるかもしれないし、具体的ではないけど呻いている人がいることを感じたかもしれない。もしかしたら自分自身のうめきが聞こえた人もいるかもしれない。それでいい。神様、どう生きて行ったらいいか分かりません。這いつくばっています。そのもがいている私たちすべての人を天に引き上げるために、イエスは神の右に坐したのだな、と感じる。
自分自身が本当に生きるのがしんどいと思ったときに、もう頑張れないと感じてたとき、地に這いつくばって生きている人たちがほかにもいることに気づいた。その人たちを引き上げるためにイエスは天に上り、神の右に坐したのだと思ったとき、現実逃避ではなく、「私たちは決して見捨てられていないだけでなく、神の側に用意された場所がある」「だから信じて生きることができる」「私もすでに神から祝福と信頼と権能を与えられているのだ」という喜びに生きることができる。
まやかしでしょうか。そうではない。沈黙したときに聞こえた人々のうめき、そして私のうめき。それを神が聞き漏らすはずがない。その信仰、その告白が、私たちを新たに押し出す。