3月22日
受難節第5主日
復活前第2主日
マルコによる福音書 15章14-32節(新約P.95)
説教 平良愛香牧師
「十字架につけられ」
使徒信条についての説教8回目。イエスが十字架につけられた、ということはキリスト教徒でなくてもよく知られている。むしろ十字架がキリスト教のシンボルになるほど大切なものであると世間では認識されているだろう。けれどそれがどういうことなのか。「イエス・キリストの十字架は私たち人類の罪を赦すためだったんですよ」という贖罪論はキリスト教の柱となるほど大切な神学ではある。
いかに人間が罪深い存在なのか、いかに「義なる神」の前に立てない存在であるか、いかに「赦し」が必要か、そのために「贖い」が必要なのか、と。けれどちょっと引っかかるときがある。有難い教えだけど、本当に自分の罪と向き合う前に、「赦してもらえて感謝」でいいのだろうか、同時に「しっかり罪を自覚せよと言うのはマッチ&ポンプじゃないだろうか」と。
十字架につけられたというのは、たとえようもないほどの肉体的な苦しみを受けたということだけでなく、精神的な苦しみも意味している。十字架刑は肉遺体的苦痛を引き延ばすという残酷な刑であっただけではなく、「見せしめにされる」という意味が強く、さらに「神から呪いを受けた」という意味合いがあった。
「十字架についた」ではなく「十字架につけられた」と言うのは、イエスが自ら十字架についたのではなく、あくまで受け身であることに気づかされる。イエスを十字架につけたのは神なのか、それとも先週話したように、「イエスを裏切ったユダ、イエスなんて知らないと言ったペトロ、イエスを見捨てて逃げて行った弟子たち、イエスを殺せと騒いだユダヤの人たち、最終決定を下したローマ役人。誰のせいで、イエスは十字架につけられたのでしょうか」という大きな問いかけなのか。
ここで「神がイエスを十字架につけた」と簡単に言いたくない。おそらく2000年間多くの人々が「神のご計画だった」と信じて来たのだろう。けれど少なくともそうじゃない面がある。むしろイエスは世間によって十字架につけられたという事実から目をそむけてはならない。そして、「神からも世間からも呪いを受けた」という十字架は、現在の「見捨てられた人々」「存在を忘れられた人たち」が受けている苦しみと重なって来る。神からも呪われた、少なくともそう理解されたイエスの十字架は、世間の「存在を脅かされている人々」を忘れるための道具になってしまってはならない。