12月28日
降誕節第1主日
ルカによる福音書 2章1-7節(新約P.102)
説教 平良愛香牧師
「ああベツレヘムよ」
「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町に旅立った。」
住民登録のために人々が苦労を強いられている。何のために住民登録が必要なのか?私のようなへそ曲がりな人間は、政府がやろうとしていることは人々のためではなく政府や国が利益を得るためであることが多いと考えてしまう。ユダヤで「これだけ人口がいるぞ」と把握したかったのは皇帝。自分の財産である土地や人、税金や徴兵のことなどを把握しておきたいと思ったのではないだろうか。権力によって苦しめられている人々の中でイエスが生まれたという話。それは国や政府に振り回されている私たちの現在に直結している。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」。本当だろうか。確かに住民登録のために多くの人がいきなり移動し、オーバーツーリズムで宿が大変なことになっていた、とは言えるかもしれない。けれどある牧師が言っていた。「本当に宿はいっぱいだったのだろうか。マリアの妊娠に対する社会的な拒絶があったのではないか。(中略)人々はそんなマリアとヨセフに関わることを避けたのではないか。「関わりたくない」からこそ、彼らには「泊まる場所がなかった」。イエスはすべての人から拒絶されるという最も孤独な状況でこの世に誕生したのだ」と。好ましくない人を拒絶する理由はいくらでもある。けれど「関わりたくない」というのが一番の理由だったのかもしれない。
居場所がないというのは、出発が遅れて到着したら宿がいっぱいだった、というマリアやヨセフのせいではなく、「厄介な人たちと関わりたくない」と思った人々や社会のせいだったと言える。まさに二人はそれを経験し、まさにその中でイエスは誕生したのだと思う。日本の状況と重ね合わせて考えないわけにはいかない。排除されている人たちがなんと多いだろうか。
ベツレヘムは現在では観光地となっているが、実は現在パレスチナのヨルダン西岸地区にある。イスラエルから観光客としてベツレヘムに行くことはできるが、ベツレヘムの住民はイスラエルへの行き来は制限されている。
ああベツレヘムよと歌うとき、そこにある痛み、そして「関わりたくない」「厄介な出来事」の中にイエスが到来したのだということを思い起こしたい。