11月2日
降誕前節第8主日
永眠者記念礼拝
創世記 4章1-10節(旧約P.5)
説教 平良愛香牧師
「カインとアベル」
アダムとエバの間にカイン、アベルという二人の男の子が生まれた。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となった。ある時、カインは農作物を、アベルは子羊を神にささげようとした。神はアベルのささげものを受け入れたが、カインのささげものは受け入れなかったので、カインは激しく怒って、最終的にアベルを殺害してさすらい人となった。神がアベルの捧げものだけをよしとした理由は聖書には全く記されていない。いろいろな解釈があるが、納得はいかない。その納得のいかなさが、実は現実の中でもいつも起きていることへのヒントなのかもしれないと思うようになった。「どうして神はカインの捧げものを受け入れなかったのか」という理由を考えるのではなく、「必死で誠実に生きていても納得のいかないことが起きることがある」というときに私たちはどう受け止めたらいいのか、というメッセージとして読めるのかもしれないと思う。
私たちの人生は、大なり小なり、納得のいかないことの連続であり、それに対し「神よ、なぜ!」と怒ることがある。それに対し、神は「どうして怒る必要があるのか。わたしが共にいるのに」と語り掛けてくる。
創世記4章後半には、「弟はどこにいるのか」と神から問われたときに「知りません」と嘘をついて、無関心を貫こうとしたカインが描かれている。もしかしたらカインが放浪しなければならなくなったのは、弟を殺したことだけでなく、あるいはそれ以上に、「知りません」と答えたことなのかもしれない。近くにいた人がいなくなったとき、「知りません」とわたしたちは言っていないだろうか。苦しんでいる人がいることに目をつぶって「わたしのせいじゃないから」と言い訳をして「知りません」と言ってはいないだろうか。
けれど神はカインを滅ぼさなかった。神から呪いの言葉を受け、さすらう者となったものの、神はカインが殺されることがないよう約束をした。生涯苦しむよう呪いをかけたようにも読めるが、カインはそのあと結婚して子孫を増やしていく。これは呪いの結末ではない。どんなに誤ったことをしてしまっても、神は見捨てない。そういったメッセージとしても読むことができる。
たとえ私たちがどんなに不条理に思えるときを生きているとしても、神は私を見捨てない。死のかなたにおいてすらも、私たちを見捨てない神がいるということを信じたいと思う。