10月26日
降誕前節第9主日
創世記 2章15-25節(旧約P.3)
説教 平良愛香牧師
「人が独りでいるのはよくないのか?」
神は最初に作った人アダムに対し、「人が独りでいるのは良くない」といって、アダムのあばら骨の一部から助け手(パートナー)を作った。それが女と呼ばれた。
以前ある会でこの箇所を取り上げて議論したことがある。「人が独りでいるのは良くない」と神が言って、いろいろな動物を連れて来たとき、アダムは「神様が用意してくださったものに不平は申しません。受け入れます」とはならなかった。「これは私のパートナーには合わない」とはっきり自分の意志を示したからこそ、最終的にもう一人の人間が与えられた。実は大きなメッセージ。「神様が与えて下さったものは、不服を言わずに受け入れなさい」ではなく、本当にそれでいいのか、吟味する姿勢も大切。神は「押し付け」はしない。神と向き合う中で、神が与えた選択肢をうのみにするのではなく、しっかり考えて応答していきたい。
2章24節にはご丁寧に「こういうわけで、男は父母と離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」と書いてあり、それが結婚の原因譚として語られるようになった。しかしこの言葉で苦しむ人たちもいる。LGBT性的マイノリティの人たち。この聖書箇所を用いてLGBTを批判する人たちもたくさんいる。別の理由で苦しんでいる人たちもいる。結婚を望みつつ、相手と出会えずにいる人たち。結婚そのものを望んでいないのに、それ自体が「一人前ではない」と見下されたり憐れまれたりしている人たち。そして離婚ができずに苦しんでいる人たちがいる。神が合わせたから、あとはどんなに苦しくても我慢しないといけないとは、神は求めていないはず。
では創世記にあるように、本当に一人でいるのは良くないのか?現在の私の結論は「やっぱり良くない」ということ。しかしそれは夫婦とは限らない。友達かもしれない。一方的な搾取や我慢によって成り立つ関係ではなく、神が結び合わせて下さった関係。それこそが、神の創造の業であった。人が独りで生きるのではなく、人間との関係性の中で生き、互いに愛し合い、生きていくという創造。誰も孤立してはならない。もし孤立している人がいるなら、その人が孤立したままでないよう、つながらなければならない。あるいはあるグループや民族や国が多数者から損なわれているとき、「一人でいるのはよくない」と神が声をかけているのに気づく。共に生きるってそういうことだと思う。神の創造の業は天地創造のときに終わったのではなく、今も続いている。そこに私たちは参与していきたいと思う。