7月6日
聖霊降臨節第四主日
コリントの信徒への手紙二 8章1-9節(新約P.333)
説教 平良愛香牧師
「献金っていくらくらいしたらいいの?」
かつて献金について「献金は信仰のバロメーター」と言った牧師がいた。議論にもなったし、「献金したくてもできない」ということもあるが、高校生だった私にはとても衝撃的な言葉だった。確かに信仰があればたくさん献金するとは一概には言えないけれど、「これぐらいでいいや」という感覚での献金って、やはり何かをないがしろにしている気がする。
「大きい教会より小さい教会のほうが一人当たりの献金額が高い」と言われることがある。「私が教会を支えなければ」という思いが強いのを感じる。
旧約聖書のマラキ書3章には十分の一を捧げなさいと語っているし、神が「わたしを試してみよ」と言っている珍しい箇所でもある。この箇所をもとに、十分の一献金を推進している教会もあるし、ひとつの目安にしてもいいのかな、とも思う。けれど献金って、本当は「いくら捧げたらいい」というものではない。
教会で語られる矛盾の話。礼拝は生活の中心なのだから休まないように、と教会は教える。礼拝は信徒にとって出席する責任があり、気が向いたときに行けばいいというものではない。その一方で、「礼拝遵守」と考えて体調が悪いのに這ってでも教会に来ようとする人がいたらこう言うだろう。「礼拝は強制ではありません。休んでください!」矛盾するようだけどどっちが本当?どっちも本当。
献金も矛盾のように聞こえることがある。強制されているように感じさせないよう「気持ちだけでいいんですよ」と言いつつ、逆にお賽銭のようなイメージ、あるいはサークルのお茶会費のような感じで少額を出されると、「精一杯の感謝の気持ちを込めて献げましょう」と言いたくなったりする。どっちが本当?どっちも本当。
支援を必要としているエルサレムの教会に、コリントの教会が献金するのをためらっていたとき、パウロはマケドニアの教会の話を出してきた。困難の中でも惜しみなく献げたことで喜びに満たされたのだ、と。たくさん献金したからご利益があったということではない。ただ自分にできる精一杯のことをしたとき、それは大きな恵みとして帰ってきたのだよ、と。イエスが示したのは貧しくなるという生き方だった。それは必ずしも金銭のことではない。与えることで神からの恵みに気づくこと。問題は金額ではない。精一杯の思いを「神さま、御用のために用いてください」と捧げていきたい。