6月15日
聖霊降臨節第二主日
エフェソの信徒への手紙 1章3-14節(新約P.352)
説教 平良愛香牧師
「三位一体ってよくわからないけど」
神学書を読むと三位一体の説明がいろいろ書いてある。そしてやっぱり分からない。先に結論を言うと、三位一体は、「これが正しい神理解です」ではなく、「こう考えるといろいろつじつまが合う」と考えられた教義。だから「私はよく分からない」という人がいてもいいし、「私はそうは思わない」と言ってもいいと思う。
そもそも聖書に三位一体という言葉は一度も出てこない。ただ、創造主である神(性別はないが、イエスが父なる神と呼んでいるのでキリスト教でも父なる神と呼ばれることが多い)と、神でありながら人となった子なるキリスト、そして子なるキリストが天に上げられたのちに、別の形で私たちのところに降りてきた聖霊。この3つが、実は一人の神の3つの顔(ペルソナ)であるという理解が三位一体。けれど、神は一人であるといいつつ、3つというのが、なんとも分かりにくい。
ただ、このように説明した人がいた。「私たちを作り、命を与えた神がいる」「私たちの友となり、私たちがいかに神から愛されているかを示し、いかに神と人を愛したらいいかを実践して教えてくれた神キリストがいる」「そして、神もキリストも見えないところにいるけど、直接働きかけて、勇気を与え、気づきを与え、信じる気持ちを与えてくれる神、聖霊がいまも私に触れてくれている」と。
ある人はこんな説明をしてくれた。「わたしにとって神さまは太陽みたいにそこに存在している。けれど明るさや熱を感じさせてくれる太陽光線は聖霊」なるほど、少し分かってきた。必ずしも頭で理解できない神。触れることができない神。けれど近くにいると感じさせてくれる太陽光線を聖霊と呼ぼう、と。
神を知ったことで、それを喜びと感じることができるのは、そこに聖霊が到来しているからだろう。おそらく神なんて、人間の知性では理解できないし、その存在を証明なんてできない。ただ、「頭では分からないけど、なんか神さまがいる気がする」「理性では信じられないけど、私の感性の中で、神様が私を愛してくれているという教えが、とてもうれしい、励ましになる」「露頭に迷っているときも、神が共にいて一緒にもがいてくれている。道を示そうとなさっている」そういった気づきが、聖霊なのかな、と思う。
三位一体ってよく分からないけど、神をもっと身近なものとして理解するためには、いいものなのかもしれない。