6月8日
聖霊降臨節第一主日/ペンテコステ礼拝
使徒言行録 2章1-11節(新約P.214)
説教 平良愛香牧師
「ぐじゅうにち、うまちぬーびがちゃくとぅ」
イエスは復活から40日後に、助け主を送ると約束して、再び見えない所に行ってしまった。不安の中に残された弟子たちに、約束されていた神からの霊、聖霊が送られた。そのことによってみんな力づけられた。それが教会の始まりとなった。そういうことを記念するペンテコステ。
礼拝ではいろいろな言葉で聖書を朗読したが、自ずと気持ちはその地域に向く。仮に中国や韓国、北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)を敵視するような偏った報道がなされたとしても、「そうではない。そこにも神に愛されている私たちの仲間(クリスチャンという意味だけでなく、人間そのもの)がいるのだ。聖霊によって私たちは言葉が通じるようになったのだ」ということを思い出させてくれる。言葉も気持ちも通じないと思われていた相手と、聖霊によって通じるようになったのがペンテコステの奇跡。
同時にペンテコステは、言葉を封じられていた人たちが「自分の言葉で語りだす」という奇跡であったとも言える。出身によって差別を受けていた人たちや、障がい者であるがために黙らされていた人たちが「それはおかしい」と声をあげ始めた。LGBTたちは「私たちはここにいます」と叫び出し、女性たちは、「私たちも心や意見を持っている人間です」と自分の言葉を語り出した。
非科学的なことが起こったわけではないかもしれない。でも、それまでの社会通念、常識を打ち破って、これまで語れなかった言葉を語り出した人たちがいた。それこそ聖霊のなせる業、大きな奇跡だったと思う。それを理解できなかった人たちもいる。けれどその言葉を待っていた人たちもいる。「普通」と「普通じゃない」の線引きが崩され、「多数者と少数者」の敵対関係が崩された出来事から教会が始まった。
しかし聖霊によって通じ合うはずの世界が、人間の愚かさで通じなくなっていることにも気づかされる。ロシア語とウクライナ語、ヘブライ語とアラビア語、いつかは並べられる日が来ると信じる。けれど、安易に「両方の言葉が通じ合うよ」と言ってしまうのは、言葉が通じない現実の痛みを軽く見ていることかもしれない。ペンテコステは聖霊降臨を祝う日であると同時に、それでも今、痛みを伴う断絶、抑圧がある、そのことを改めて覚えると同時に「どんなに難しく思えても、私たちが信じる神は、必ず平和を実現させることを信じるとき」でありたいと思う。