6月1日
復活節第七主日
ルカによる福音書 24章44-53節(新約P.161)
説教 平良愛香牧師
「キリストの昇天」
十字架で処刑され、3日目に復活したイエス。このことを信じるかどうかは、人それぞれでかまわないだろう。教会によっては「復活を信じないなら、もはや信仰があるとは言えない」と言うところもあるだろうけど、私自身は、復活を史実や科学的事実として受け止められなくても構わないと思っている。大切なのは、「復活したイエスと出会ったという経験をした弟子たちが、絶望から希望に換えさせられ、勇気が与えられ、大胆に語り出し、宣教に送り出されていった、という記述。弟子たちの生きる中で、イエスはよみがえって自分たちの輪の中にもどって来られた。そのことを通して、弟子たちは「主イエスは死を超えて私たちとともにいる」「わたしたちは決して放っておかれない」ということを確信したという事実。それこそが「キリストの復活」の意味だろう。
キリストは復活して40日間、弟子たちとともにいた。弟子たちにとっては、大変ありがたい時期だったと思う。何しろ「私たちは決して放っておかれない」という確信をもってイエスと過ごしたのだから。ところが、復活から40日目、突然イエスは天にあげられる。「昇天」。ふと思った。「どうしてイエスは40日目に昇天したの?」「それって、弟子たちにとって、再びやってきた「置いてきぼり」ではないのか。
イエスの復活と昇天の物語を読むと、なぜイエスはそのまま地上に残って宣教を続けなかったのか疑問にもなる。復活した自分の姿をもっとあちこちに示したほうが、多くの人に宣教できる。けれどイエスはそうしなかった。これからの福音宣教は、弟子たち、そしてそれに続く人々にゆだねた。それは、福音宣教を続けるも続けないも、ゆだねられたということ。同時に、イエスの名によって歩くとき、必ず聖霊が守り導いてくださる、ということを弟子たちが、わたしたちが経験していくということ。キリスト教(というよりイエスの生きざまやイエスの死後もイエスによって励まされた事実)を弟子たちは伝え続けた。
ヨハネ16:12―13「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」弟子たちが実際に行動し始めるのは、イエスの昇天からさらに10日待たねばならなかった。けれどやがて聖霊が与えられ、力づけられる。大胆に語りだすときがくる。