5月4日
復活節第三主日
マタイによる福音書 12章38-42節(新約P.23)
説教 平良愛香牧師
「証拠を見せてください」
何人かの律法学者やファリサイ派の人たちがイエスに言った。「先生、しるしを見せてください」。ここは必ずしもイエスを陥れようとしたのではなく、本当に答えが欲しかったのかもしれない。それまでも「偽預言者」や「偽指導者」によってさいなまれてきたことが分かる。律法学者たちはそのことをよく知っていた。だからこそ、イエスが本当に信用していい預言者、指導者なのかを知りたいというのは当然のことであった。だからしるしを求めた。
しかしイエスは証拠は見せてくれない。人々はしるしを欲しがるが、神が示すのはそういった奇跡ではなく、旧約聖書に出てくるヨナや南の女王が何を経験し、信じたかということに現れていると答えるのみ。「しるしは欲しがって与えられるものではない。ただ信じて無条件に従ったときに、神の業が神の恵みとして与えられた」ということなのではないかと思う。しかも律法学者たちが見下している異邦人であるニネベの人々や南の女王たちによってあなた方が裁かれるのだ、という強烈な批判をしている。
なお、並行箇所のマルコ8章ではイエスはニネベや南の女王の話すらしない。そこではただイエスは「心の中で深く嘆いて言った。どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と言って、しるしを全面的に拒否する。
実は証拠を求めるというのは、イエスに関心を寄せているようでありながら、「イエスを信じていい」というための保障を得ようとしていること。だからイエスは拒否した。「どうしてしるしを欲しがるのか」と。しるしの提示を含め、人間の求めることに応じる神であれば、とても魅力的で信じやすい。けれどもそれは、神を支配していることにほかならない。しるしは願って示してもらうものではなく、そこにあることに気づかねばならない。
イエスは無残に死んでいった。そこでしるしはついえたのか。そうではなかった。無残に死んだイエスを見て「まことに、この人は神の子だった」と信仰を告白した人がいた。なぜだろう。きっとこの人は、イエスの生き様と出会う中で、そしてきらびやかではなく無残に死んでいったイエスに、「ここにしるしがあった」と気づいたのではないだろうか。私たちは、目に見えるものではなく、見えないものに目を注ぐことで、信じるかどうかが問われているように思う。