4月27日
復活節第二主日
マタイによる福音書 28章11-15節(新約P.60)
説教 平良愛香牧師
「ファクトチェック」
イエスの復活の話を喜べない人たちがいた。イエスの存在が不都合な人たちにとっては、イエスが復活したことは悪い知らせ。マタイによると、祭司長たちは、「兵士たちに多額の金を与えて言った『弟子たちが夜中にやって来て、我々に寝ている間に死体を盗んで行ったと言いなさい。』」マタイによる福音書はユダヤ人たちに向けて書かれたと言われている。だからこそ、ユダヤ人たちにすでに行きわたっている「イエスの死体は盗まれたのだ」といううわさ・流言を否定するために、他の福音書にはない記述をあえて書き加えたではないだろうか。
けれど同時にそのことが、大きなメッセージとして私たちに届く。番兵たちは復活のイエスを直接見てはいなさそうだけど、明らかにイエスの遺体が盗まれたのではないということを知っている。多額のお金を受け取り、自分達の信じていないことを広げていった兵士たち。その結果、弟子たちの策略としての空っぽの墓の話が広まった。一方、マリアたちは「お墓が空っぽなんです。イエスは復活したんです」という知らせを広げていった。
イエスを信じない人々は「弟子たちの策略」ととらえ、信じる人々にとっては「救いの知らせ」となっていった。実際に目撃したわけではないこの復活の物語。確かに、復活を信じるほうが難しいと感じるのは当然。しかし、空の墓を見、「イエスは復活したのだ」と信じた人たちの信仰が2000年を経てわたしたちに伝えられている。それが史実であるかどうか、ファクトチェックはできない。科学的証拠なんてない。けれど、「死体は盗まれた」というのもファクトチェックはできない。
事実であっても、目の前で起こってすらも、信じられないこともある。それまでの経験や知識が邪魔をしていることもあるかもしれない。なんでも鵜呑みにして信じればいいというものでもない。そもそも「信じろ」と言われて信じるのは押し付けでしかない。「信じないと救われませんよ」と言うなら、それは脅しでしかない。私たちは自分の目で、自分の耳で、自分の心でファクトチェックをしなければならないのだと思う。私たちがまず知るのは、イエスの墓が空っぽになっていたという事実。それを喜びとするか、それとも策略と見るか。一回信じて終わりではなく、日々、「イエスは復活して、今も共におられる」ということを思い出し、信じて、イエスと共に歩む者でありたい。