4月20日
イースター礼拝
マタイによる福音書 28章1-10節(新約P.59)
説教 平良愛香牧師
「もうひとつの『恐れるな』」
マグダラのマリアともう一人のマリアという女性たち(マルコだとそれにサロメが加わる)が週の明け方朝早く、イエスの墓を訪れた。悲しくて切なくて、どうしようもなくて、少しでもイエス様の近くに居続けたい、という感覚的なものだったのかもしれないけど、それだけではなく、イエスの死後もイエスに仕えようと思っていたのではないか。マルコやルカでは「イエスのなきがらに香料を塗るために行った」と書いてある。するとそこに現れた天使から、二人はイエスの復活を聞く。恐れと喜びの中で、他の人々に知らせるために走り出すマリアたち。そこに復活のイエスが現れ、「おはよう」と声をかける。
注目したいのは、マリアたちがイエスの足を抱き、ひれ伏したということ。「あなたに会いたかった」という思いと、「あなたに仕えます」と平伏する様子がここには描かれている。その時、マリア達が見たものは何だっただろうか。ある牧師がこう言っていた「その時マリアたちが見たのは、十字架につけられたときの受けた釘のあとであり、生前のイエスの活動と苦難によってできた傷のある足だったのではないか」と。そうかもしれない。痛々しい傷をマリアたちは見てしまったのではないか。そしてこう思ったのではないか。「わたしはイエス様を守れなかった。イエス様は私たちが何もできないでいる間に、釘を打たれ、殺されたのだ」。
あらためてマタイのこの箇所を読むと、イエスと再会できた喜びをマリアたちに感じると同時に、自分のふがいなさ、「何もできなかった」という罪の意識を激しく思い起したのではないかとも思う。イエスの足にしがみつくマリアたちは、喜びと同時に大きな恐れを抱いていた。イエスの足の傷を見ることで、もしかしたら喜びよりも恐れのほうが大きくなってしまったかもしれない。
聖書には「恐れるな」は本当にたくさん出てくる。権力を恐れるな。正しさを疑うことを恐れるな。変化を恐れるな。神が共にいることを恐れるな。今日読んだ箇所は、「イエスに従いきれなかったという自分の罪の意識」「わたしがイエスを傷つけ殺してしまったのだという罪の意識」「こんな自分がイエスに従ってるなんて言ってもいいのだろうか」「そんな資格は私にはありません」という気持ちを抱いてしまったマリアたちに対して、改めてイエスが語り掛ける。「恐れることはない。恐れず、この知らせを告げ知らせなさい」と。