4月6日
受難節第5主日
マタイによる福音書 20章20-28節(新約P.38)
説教 平良愛香牧師
「できます」
ミャンマーの地震のニュースを聞いて、「地震の前に戦争が終わっていれば、被害はもっと抑えることができたはず。現在の被災は、戦争を終わらせることができなかったすべての人の責任である」と思った。「ミャンマーは大変ですね」ではなく、「私はそれを止めることができなかった」と強く感じる。
ゼベダイの子ら(マルコ福音書によるとヤコブとヨハネ)の母親が、イエスに願い出る。「あなたが王座にお着きになるとき、二人の息子があなたの右と左にそれぞれ座れるようにしてください」。なんちゅうお願いじゃ、と思う。ちなみにマルコ福音書では弟子のヤコブとヨハネが直接願い出ているが、弟子の権威というものを重んじるマタイでは母親が言ったことにしてある(女性が愚かな存在として書かれていることは不愉快だけど)。しかしイエスは、彼らの母にではなく2人の弟子に対して、「私が受ける受難の杯をあなたたちも同様に受けられるか」と直接問う。その内容を全く理解しないまま、安易に「できます」と答えてしまった二人。せめて「主よ、それはどういう意味ですか」と答えてほしかった・・・。
しかし、イエスは弟子たちの無理解にうんざりして喋るのをやめるわけではなく、またこれから弟子たちに裏切られることを見据えたうえで、それでものちの指導者としてあるべき姿を語り掛け、「皆の僕になりなさい」と教える。仕えられるためではなく仕えるため、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのだと語るイエス。「しもべとなることを示した私に倣いなさい」と語るイエス。そのイエスの願いは、今の私たちにも示されている。
イエスがその生涯を通して人々に仕える者として歩んだ、その歩みを思い起こしたいと思う。ミャンマーやガザやウクライナや世界のあらゆるところ重荷を背負っている人たちがいるとき、イエスは「どうやったらその重荷を私は背負うことができるだろうか」と考え、また私たちにも問いかけてくる。私たちが背負おうとしないとき、あの人たちの重荷は私が背負わせているのかもしれないと思う。決して楽な思考ではない。けれどイエスにとって「他人事」は存在しなかったのではないか。重荷を誰かに背負わせるのではなく、イエスがしたように、共に担うものとして歩みたい。その問いかけの重みを受け止めつつ、勇気をもって「できます」と答えたいと思う。