3月2日
降誕節第10主日
マタイによる福音書 14章22-36節(新約P.28)
説教 平良愛香牧師
「幽霊だ!」「私だよ」
イエスは弟子たちを船に乗せた後、自分は祈るためにひとり山に登った。夕方になってそこから船が見えたのだろう。あらあら逆風で船が進まなくなっているわ。
夜が明けるころ、なんとイエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに近づいてきた。弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。それに対しイエスは言う「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない。」
弟子たちは「自分の命が脅かす得体のしれない存在」におびえたのかもしれない。私たちは、目の前にあるものや出来事が、不可解で立ち向かえないものだと感じたとき不安を感じる。自分の将来についても不安はある。何歳まで生きられるのか。逆に何歳まで生きてしまうのか。健康は、お金は、老後は。不安の種は無限にある。
もっと大きなものに不安を感じることもある。日本がこれからどうなっていくのか。戦争や原発に反対しているけど、歯止めになっていない。あるいは、世界はどうなるのか。私たちがどんなに人生経験を積んでも、分からないことや不安のほうが多い。
弟子たちの「幽霊だ!」という叫びは、不信仰だったからとか幼稚だったからという問題に矮小化する必要はない。むしら私たちみんなが持っている不安、おびえ。そこにイエスが来て語りかけているように思う。「私だよ。安心しなさい。」
弟子たちが安心したのは、幽霊だと思った影の正体がわかったからだけではない。強い風と波にさいなまれている事実は変わっていない。けれど、自分たちのそばにいるのが、私たちを励まし、愛し、決して見捨てないイエスキリストだったと気づいたからこそ、安心していいのだと気づいた。私たちが生きているこの時代、不安は限りない。けれど、イエスが共にいることに気づいたとき、困難な現状にあっても勇気をもって一歩踏み出すことが可能になる。
さらに、湖の上を歩きだしたペトロは、一瞬現実を見て再び恐れ沈み始める。この姿はまさに私たち。イエスを見つめて歩み出しても、絶えず「やっぱり不安」にいつも押し戻される。大丈夫、そのときイエスは手を差し伸べて助けてくださる。「どうして信じないのか」と言いつつ、決して手は離さない。「わたしだよ」と手を伸ばしてくれるイエスが決して手を離さないことを信じ、「そちらに行かせてください」と一歩踏み出したい。