2月23日
降誕節第9主日
マタイによる福音書 15章21-31節(新約P.30)
説教 平良愛香牧師
「子犬もいただく落ちたパン」
カナン人の女がイエスのところに来て叫んだ。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」ところがイエスは無視する。女性が「主よ、どうかお助けください」と言ってイエスの前にひれ伏したら、イエスは「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言ったという。どうしてイエスはこんな冷たいことを言ったのだろうか。
いろいろな解釈がある。イエスが彼女の信仰を試そうとしてわざといじわるを言ったのだ、と説明する人もいる。けれど、無視されても叫びながらついてくるこの女性をイエスが試そうとした、というのはちょっと違う気がする。むしろ本当にイエスは「いやす気はなかったのではないか」と思わされる。
旧約時代からイスラエルは神に導かれ、神に応えて生きることを求められていたにも関わらずそれに背いてばかりきた、そのイスラエルの信仰を確かなものにするために来たのがイエスの役目であって、ただの「奇跡を行って病気をいやす超能力者」だと勘違いされることを避けるために、あえてここでは「イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」と言ったのではないか。イエスはここで異邦人を除外したのではないか。しかも女性だということで、軽くあしらおうとしたのではないか。イエスの言った小犬というのはかわいいペットではなく、明らかに差別的な意味をもつ言葉だったのだから。
けれど、この女性のすがるような行動はイエスを動かした。彼女は「小犬」という言葉を差別されている動物という意味から、主人に養われている飼い犬という意味にし、わたしも恵みに預かる資格があっていいのだ、と切り返す。それを聴いて初めてイエスは彼女に向き合う。私はここを読むと、初めてイエスは足を止め、彼女の眼を見たのではないかと感じる。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」という答えはイエス自身、自分の中にあった狭さ、差別性に気づかされた瞬間だったのではないだろうか。
イエスが言った「立派だ」という言葉は、「大きい、強烈である」という意味だった。彼女が全身全霊でイエスに対峙したとき、その信仰はイエスも驚くほど大きく、そしてイエスを突き動かすほどに、あえて言うならイエスが自分の方向を変えざるを得なくなるほどの強烈であったと言えるのだと思う。彼女の願いは聞き入れられた。すべての人が神の恵みの対象である、ということがいよいよ実現し始める。