礼拝説教要旨「異邦人のガリラヤ」(イザヤ 8:23b-9:3、マタイ4:12‐17)

1月19日
降誕節第4主日

イザヤ書 8章23b-9章3節(旧約P.1073)
マタイによる福音書 4章12‐17節(新約P.4)

説教 平良愛香牧師
「異邦人のガリラヤ」

 

イエスが活動をしたガリラヤ地方は、もと北イスラエルになる。この北イスラエルは紀元前8世紀にアッシリアに侵略されて異邦人の支配下に置かれ、その習慣が礼拝にも入り込んできたため、とくにガリラヤは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれてさげすまれてきた。そのころ預言をしたのがイザヤ。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見る」。神を見失っている民に対し、「ひとりのみどりごが生まれる」と言って、神がこの地に関わって喜びを与えてくださる、と宣言する。

同じ民族の仲間たちからさえ見下されて地域で、イエスは宣教を開始し、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と呼びかけた。それは、「ほかの地域よりも罪深いガリラヤの人たちよ悔い改めなさい」ではない。闇の中に取り残されていた人々に「わたしたちを迎え入れる天の国が近づいているから、それに応えようよ」というイエスの呼び掛けだった。

毎週礼拝の中で、「私たちは神も隣人も愛せていなかった一週間だった」ということを思い起こして祈る。隣人を愛せないこと、見下すこと、それは罪であり、悔い改めを必要とする。隣人を愛せない私をお許しください。そして、隣人を愛せますように、見下しませんように、差別しませんように、差別があるときはそれを乗り越えることができますように、たたかうことができますように、そのためにあなたの愛に気づかせてください、それが私たちの切なる悔い改めの祈り。それは同時に、自分自身を愛せないこと、自分自身を卑下すること、周りからいじめられたり差別されたりしていてもあきらめてしまうことについての悔い改めである。

イエスがまずガリラヤの人達に「悔い改めよ」と言ったのは、「自分たちが差別されていることに対して、仕方がないとあきらめてしまっているという罪」に気づかせる意味もあったんじゃないかと思う。天の国は近づいたのだから、「自分たちはダメだ」というところに留まっているな。喜べ、生きよ。そういうメッセージにも聞こえてくる。

「天の国」は「神の支配」とも言い換えることができる。神の完全な支配は、なかなか表面化しにくいけど現実としてすでに始まっている。私たちはイエスがガリラヤで「悔い改めよ、天の国は近づいた」と声を上げた意味を新たに喜びたい。神の支配がはじまった。闇に留まるな。身を乗り出し生きていこう。福音は信じる者に力を与える。

 

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