1月5日
降誕節第2主日
マタイによる福音書 2章13-23節(新約P.2)
説教 平良愛香牧師
「イエスは難民一家」
マタイ福音書を読むと、クリスマスの物語はお祝いで終わってはいない。マギたちが違う道を帰っていったことで激怒したヘロデ王は、自分がだまされた、外国から来た異邦人たちにこけにされた、そして、自分の地位を危ぶむ存在がベツレヘムにいるらしい、ということを知り、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。
実際に何人ぐらいの子どもが殺されたのかは分からない。東方正教会では1万4000人、コプト教会では14万4000人としている。逆に小さな村だったのだから2歳以下の男の子は10名から20名だっただろうという人もいる。ただ問題は数ではない。どうしてこの子たちが殺されなければならなかったのか。
イエスが生まれたことによって殺された子どもたちがいる、ということに憤慨する人たちもいる。それならばイエスは生まれない方がよかったのでは?それとも、誰かが犠牲にならないといけなかったのか。どうして天使はほかの親に「逃げなさい」と言わなかったのか。疑問ばかり起こる話。
実は、この物語、史実ではない可能性は高いと言われている。ただ大切に考えたいのは、どうして「イエスが生まれたことで、殺される子どもたちがいたということを聖書は書き残したのか」ということだと思う。
イエスが生まれようと生まれまいと、命(とくに幼い命や弱者の命)が軽んじられている時代だったと聖書は記そうとしたのではないだろうか。ひょっとすると「たいしたことのない事件」として当時なら記録も残らないようなことを、どうしてもマタイは書き残したかったのかもしれない。イエスは生まれてすぐに難民になったということと同時に、助からない子どもたちがたくさんいるような時代だったのだと。
ある友人がこんなことを言った「ヘロデは何を恐れていたのだろうね。やはり自分の地位が脅かされることを恐れ、同時に、支配欲によって、自分にとって不都合な存在をことごとく弾圧し、征服していこうと考えたのだろうね。」この物語は、21世紀の現在の話だともいえる。現代のあちこちの国の指導者が、自分の権威を守るために、人々の命を奪っている。何を恐れているというのだろうか。
私たちは、クリスマスを喜び祝うと同時に、その中で忘れ去れている人がいないか、しっかりアンテナを張っていきたい。今年こそ、主イエスの平和が実現する年にしていきたい。「あなたがたのために救い主が生まれた」という宣言が、この世界のすべての人のための言葉となるよう、顔を上げて歩んで行きたい。