礼拝説教要旨「恐れるなパートⅣ 人々」(マタイ 2:1-12)

12月29日
降誕節第1主日

マタイによる福音書 2章1-12節(新約P.2)

説教 平良愛香牧師
「恐れるなパートⅣ 人々」

 

東の国の占星術の学者(マギ)たちはユダヤの人々から見ればとてもうさんくさい存在だった。でもこのマギたちも、本気で自分たちの希望を求めていたのではないか。だからこそ必死で答えを求め、命がけで旅をしたのではないかと思う。

そして、見失った星を再発見したときに踊り上がらんばかりに喜び、命をかけてでも出会う価値のある方に出会えたという気持ちで贈り物を捧げたのだろう。聖書にはマギたちに対して「恐れるな」という言葉は書かれていない。けれど大きな不安の中で、喜びを見出したということはできるだろう。

さて、ところが、救い主の誕生を喜ばなかった人たちがいた。ヘロデとその取り巻き、そしてエルサレムの人々だった。ヘロデが荒れるぞ、波風立つぞ。また不要な血が流れるかもしれない。そんな不安だったかもしれない。国の権力者におもねる生き方のほうが、ずっと平和なのに、と。

アメリカのバイデン大統領が、アメリカの40人の死刑囚のうち37名の刑を軽くして「終身刑」にした。一方、日本では多くの人が死刑制度に賛成あるいは「やむを得ない」という立場にいるらしい。遺族の怒りに共感し、報復を国が代行してくれる、そう考えているのかもしれない。遺族の立場に立てば、という声もよく聞くが、今回はあえてもう一つ別の側面、死刑制度は「国は人の命を奪う権利がある」という制度であるこということに意識を向けたい。国には人の命を奪う権利があるのだろうか。そもそも国って何?人の命を生かしたり殺したりできる機能を国だったら持っていていいのだろうか。

エルサレムの人々が恐れたのは、自分たちを苦しめたり殺したりできる権能をヘロデが持っていると思い込まされていたからではないか。確かに新しい王の誕生で、市民の命は危ぶまれるかもしれない。けれどはっきり自覚しないといけないのは、ヘロデにも国家権力にも、人の命を奪う権利はないということ。たとえ戦争中であっても、私たちは政府の顔色を見るのではなく、平和の君と呼ばれるイエス・キリストのまなざしを思い出す。

マリアに対し、これから訪れる不安・不条理に「恐れるな」と声をかけた神。

ヨセフに対し、正しさを捨てることを「恐れるな」と語りかける神。

羊飼いに対し、「あなたがたのために救い主は生まれたのだから恐れるな」と宣言する神。そして今神は人々に、「国の権力者や社会を恐れるな。神はあなたと共にいる」と語りかけておられる。

 

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