12月22日
アドベント第4主日
クリスマス記念礼拝
ルカによる福音書 2章8-20節(新約P.103)
説教 平良愛香牧師
「恐れるなパートⅢ 羊飼い」
救い主が誕生した夜、その知らせを最初に受けたのは羊飼いたちだった。羊飼いたちは、「信仰深く、救い主の誕生を待ちわびていた心の清い人たちだった」というわけではなく、むしろ「周りから線を引かれ、マイナスのレッテルを貼られて、自分でもそのレッテルを受け入れてしまっている人たち」だった。そこに、救い主誕生の知らせが真っ先に届けられた。
「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。「栄光」はとても訳しにくい。「栄光」と訳されたギリシャ語のドクサには「名声」「栄誉」という意味があるが、もとのヘブル語のカーブッドゥには光っているという意味ではなく、あえて説明すると「神が歴史の中において、その行為をとおして現わされる、神の神らしさ」という意味。分かるようで分からない。
でもそれでいいのだと思う。分かってしまったら私たちのイメージした中に収まってしまう。そうではなく、何者でもない神が、歴史を超えて私たちを包み込み、共にいて下さる。そのカーブッドゥが羊飼いたちを包んだとき、当然恐れが生じる。けれどそれは同時に、「怖がらなくてもいい」という慰めと励ましの出来事でもあった。そして天使は告げる。「大事なメッセージを受け取るために心を開きなさい、今日、ダビデの町で、『あなたがたのため』に救い主がお生まれになった。この方こそあなたがたがずっと聞いて待ちわびていたメシア、救い主、キリストなのだよ」と。
天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ」と賛美し始める。「神に栄光あれ」ということは、「神を神とせよ。アウグストゥスは神ではない。」「アウグストゥスに栄光なし」という非常に抵抗的な言葉でもあった。「地には平和、御心に適う人にあれ」。当時の世界ではローマはパックスロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる非常に尊大な国家秩序を誇っていた。しかし天使がいう。「もし地に平和があるとすれば、それは国家とか皇帝といったきらびやかな見せかけの栄光を身に帯びている者たちにではなく、神が『あなたこそ大切』と認めた人々にこそ実現する平和である」と。
わたしたちがクリスマスに確認するのは、軍事力でも経済力でもなく、ただ神の栄光によって世界が包まれるということ。どんなにそれが不可能に感じても、信じた者たちがそれを目撃することができたということ。羊飼いたちは「御心に適う人に平和があるように」という宣言が、とりもなおさず、自分たちに向けられていたと気づく。羊飼いたちは、平和の到来を実感した。もう恐れてはいない。私たちの恐れを取り除くクリスマスがいま、到来している。