礼拝説教要旨「恐れるなパートⅡ ヨセフ」(マタイ 1:18-23)

12月15日
降誕前節第2主日
アドベント第3主日

マタイによる福音書 1章18-23節(新約P.1)

説教 平良愛香牧師
「恐れるなパートⅡ ヨセフ」

 

マリアのいいなずけであるヨセフは、マリアが身ごもっていることを知り、ひそかに離縁しようとした。その理由を「正しい人だったので」と聖書は記している。どうして正しい人だったら離縁を考えるのか。いろいろな理由が考えられる。「マリアが自分を裏切ったから、婚約を解消する」「不貞を働いたマリアを妻に迎えるというのは、自分もその不貞を良しとした男であるとレッテルを貼られる」とも考えられるが、「マリアが誰とも婚約していなかったとすれば、彼女は裁かれないのでは」と思った可能性もある。しかしそもそもマリアと離縁すれば本当にマリアは守られるのか。

そこに現れた天使が言ったのは「恐れずマリアを妻に迎えよ」ということだった。「マリアを妻に迎えなさい。マリアの胎内にいる子は神の特別な計画による子であり、預言されていた救い主であり、これまでローマやその他の国に苦しめられてきた私たちを救う存在である」と告げた。ヨセフが信じたのは、マリアの懐妊が「ほかの男性がいたわけではない」ということではなく、「たとえどうであれ、マリアが産もうとしている子は、神の特別な守り、導きの中で生まれる子であり、預言されていた救い主なのだ」ということだった。

これは言い換えると、一般には「正しい」とされていることを退けたともいえる。マリアの産んだ子がヨセフの子ではないということは世間に知られるだろう。それでもマリアを妻として迎え入れるというのは、「律法に反する」とみる人もいるかもしれない。「正しくない選択をした」と言われるかもしれない。けれどヨセフは、神がともにいることを信じた。私たちの「正しさ」「正義」ではなく、神が示す道を選び取った。マリアを守るため、これから生まれる幼子イエスを守るため、何よりも、神がともにいるということを信じるために。

「正しさ」はときどき道を誤る。何等かの事件で「犯人」とされた人は、「正義」を振りかざす人からいやがらせを受けることがある。それが冤罪だったとか人違いだったとかとなると「いやがらせした人はとんでもない」となるが、冤罪ではなかったら、いやがらせは正当化されるのだろうか。「正しさ」は暴力になりうる。

ヨセフに告げられた「恐れるな」は、「正しさだけを基準としないことを恐れるな」と読める気がする。「正しい人」だったからこそ、判断に苦しみ、恐れたヨセフ。しかし天使が告げたのは「正しいことをしなさい」ではなく「神がともにいることを思い出しなさい」「いまあなたの助けを必要としているマリアを見放すのではなく、ともに生きる決断をしなさい」ということだった。ヨセフにとってはとても大きな決断であり、いったん「正しさ」を手放すことだったかもしれない。けれどヨセフはそれをやった。ヨセフは「神がともにいる」ということに自らをゆだねたのだと思う。

やがてマリアとヨセフの間に生まれたイエスは、「インマヌエル」と呼ばれる。それは「神われらと共にいます」という意味だった。いよいよクリスマスを迎える私たち。神がともにいることを確認するときが迫っている。

 

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