8月25日
聖霊降臨節第15主日
出エジプト記 13章21-22節(旧約P.115)
説教 平良愛香牧師
「雲の柱、火の柱」
出エジプトの物語は、虐げられている人々を神は救い出す、というメッセージ。その象徴としてイスラエルという言葉が使われてはいるが、私たちが聖書を読むときは、一つの民族や国家のことを指すのではなく、抑圧され、虐げられている人々のことだったということを、まず心に留めたい。
モーセは、神が共にいて、われらを導くということを信じた。どんなに準備しても、し足りない砂漠の旅。しかも準備の時間は一晩もなかった。むしろ準備ができないからこそ、神に頼るしかなかったと言えるのかもしれない。そして、その通りになった。文字通り右も左も分からない砂漠の中で、神は、昼は雲の柱、夜は火の柱を立てて、人々を導いたという。人々はそれを見て安心したのかもしれないが、むしろそれに頼らざるを得なかったのだろうとも思う。
不安の中で道を突き進む。それしか道がない。そんな中で、おそらく、徐々に、雲の柱、火の柱に従えば大丈夫だ、ということを実感していったのではないかと思う。神は雲の柱によって民を導き、火の柱によって民を照らしていった。人々は、神からの示しによって道を与えられていった。では、現在は雲の柱、火の柱は一体どこにあるのだろうか?
現代の奇跡物語を探せば、不思議な形で道を与えられた話を読むこともできるだろう。では逃げ道を与えられなかった人はどうなるのだろうか。ナチスのホロコーストで殺されたたくさんのユダヤ人や障がい者や同性愛者たちはどうなるのか。現在でも生きる道がつぎつぎ遮られて、露頭に迷ってしまっている人はたくさんいるではないか。信仰深くあれば正しい道が与えられるなんて思えないことが、本当は多いのかもしれない。神様、雲の柱、火の柱はどこ?示してください。
きっと過去の神学者や牧師たちも悩んだんだろうなあ。そういうもがきのなかで、ドイツの女性神学者ドロテー・ゼレのように、「神が一緒にもがいて、泣いている」ということを考え出すのだろうと思う。
私たちが気づくのは、神は決して私たちを見捨てず、一緒にいてくださっているということ、それこそが、雲の柱であり火の柱であるのだということ。出エジプトの民が気づいたのは、とにかく神が私たちとともにいるということだったに他ならない。キリスト教の教えは「神は存在する」ではなく、「神は私たちと共にいる」ということ。それを今日新たに信じ、歩んでいきたい。