礼拝説教要旨「アンチ~」(ヨハネの手紙一 2:22-29)

6月9日
聖霊降臨節第4主日

ヨハネの手紙一 2章22-29節(新約P.443)

説教 平良愛香牧師
「アンチ~」

 

アンチはギリシャ語で「反対、対抗、逆の」の意味。ヨハネの手紙にはアンチクリストという言葉が出てくる。「反キリスト」と日本語で訳されている。

キリスト教に反発したり、あるいはイエス・キリストを「神の子、救い主だ」と信じる人を弾圧したりする人を「アンチクリスト」というならなるほど、と思う。けれどここでは、イエスがメシアであることを否定する者はアンチクリストだという。

ヨハネの手紙は、既にイエスをメシア(キリスト)だと信じている人たちに送られた手紙。キリスト教を信じたものの、イエスが本当にメシアなのだろうか、というゆらぎを持った人たちがいたことが読み取れる。キリスト教に反対したり弾圧したりしているのではなく、一応イエスの教えには共感しつつも、イエスがメシアであることの核心がゆらいでいた人たちがいたのだろう。あるいは教会そのものにそのようなふしがあったのかもしれない。メシアを「神の子、救い主」だと信じきれない人たちがいたのかもしれない。

けれどこんな面もあったのではないか。メシアとは「油注がれた者」。救い主としての称号。けれど油注ぎには献げ物や、治癒、弔いの意味もあった。「油注がれた者、メシア」と言うことは、同時にイエスの苦悩や死を認めることでもある。傷つけられ、十字架で殺されたイエスをメシアとして見るということは、理想的な政治的指導者、圧倒的「力」の所有者という強権的なリーダーとしてではなく、傷を負いつつ、私たちの痛みに徹底的に寄り添うメシアであるということ。それを否定し、世俗的ないわゆる「勝利者」をイエスに求めるのは、アンチクリスト、反キリストである、とも言えるのではないだろうか。

私たちは正しさを持って神の前に堂々と立つことはできない。むしろ、他者を踏みつけても無感覚でいてしまう。自分のことしか愛せない、いや、自分のことすら十分に愛することができない、そんな私たちが、イエスの十字架の苦しみに触れるとき、ようやく「自分の力」ではなく、ただ弔いの油を注がれたイエスが共にいることによってのみ救われるのだということに気付く。イエスの十字架は癒しの油注ぎでもあった。

私たちは他者に対する疑念、猜疑心に凝り固まることがある。逆に社会生活の中で疑われ、信頼されず、ないがしろにされることもあるだろう。そんな中で気づくのは、傷つき、癒され、そして葬られたメシアが共にいること。メシア、キリスト、油注がれた者を思い、私たちも癒しの油を注がれて生きていきたいと思う。

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