礼拝説教要旨「しばらく」(ヨハネ 7:23-29)

5月12日
復活節第7主日

ヨハネによる福音書 7章23-29節(新約P.179)

説教 平良愛香牧師
「しばらく」

 

今はあなたがたから見えるところにいるが、近々探しても見つけられないところに行く。これは、イエスを遣わした神のもと、すなわち天にもどるときがくる、という予告だった。けれどもそれを理解できない人々はうろたえる。「イエスは一体どこに行ってしまうと言っているのだろうか」と。

あるユダヤ人たちが言う「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところに行くつもりなのだろうか」。ヘブライ語を話すユダヤ人グループとギリシャ語を話すユダヤ人グループはお互いに距離を取り合っていたことが分かる。その断絶の向こう側にイエスは行こうとしているのだろうか、と。結果的にペンテコステというのはその断絶が取り除かれる出来事となるとも言えるが、イエスは他のコミュニティに行くと言ったのではなく、神のもと、天に戻ることの予告だった。

この会話は仮庵祭(収穫祭)の間の出来事だった。そしてこの祭りの最中に、イエスを殺そうとする人々が出てくる。下役たちがイエスを捕らえるために遣わされてきた中でイエスが言う「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる」は、身に危険が迫っている者としてはあまりにも悠長な言葉である。けれど同時にこのようにも考えられる。私たちが「これが最善の判断」と思っているときに、本当にその判断は正しいのだろうか。

何かを守ろうとしているときに、もっと大切なものを売り渡してしまうということはないか。イエスは、そこに留まることで自分がなしうることが残っていると感じていた。守りに入るのではなく、自分が危険にさらされてでも、一番大切なことを語り続けた。だからこそイエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

神の言葉が信じられなくなりそうになったとき、「渇いている人はだれでも、わたしのもとに来て飲みなさい」と言う言葉を思い出す。同時に、イエスから与えられる水は自分の渇きを癒すだけでなく、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」自分だけが飲むのではない。イエスとの出会いの中で内側から変えられ、与える者となる。そこには「自分だけが飲むのではない者にならせてください」という祈りが湧いてくる。

 

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