礼拝説教要旨 「なぜ泣いているのか」(ヨハネ 20:1-10)

3月31日
復活日
イースター礼拝

ヨハネによる福音書 20章1-10節(新約P.209)

説教 平良愛香牧師
「なぜ泣いているのか」

 

マグダラのマリアは朝早く、まだ暗いうちに墓に行った。ところがマリアは墓の石が取り除けてあるのを発見した。イエスの十字架での死を、時間をかけて受け入れようとしていたにも関わらず、煙のように唐突に消えてしまったイエス。マリアは墓の外で泣いていた。そのマリアに背後から声をかける人がいた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか」。

この言葉は「なぜ泣いているのか。泣かなくてもいいのに」だと思う。困惑、悲しみ、喪失感、そういったものが詰まっているマリアに対して、私が共にいるから泣かなくてもいい、と気づかせようとするイエスの存在は私たちに大きな励ましを与える。

ではイエスが共にいるのだから悲しんではいけない、ということなのだろうか。世界にある不条理、差別や抑圧、戦争や災害に対しても「悲しんではならない」と思わないといけないのだろうか。そうではない。しっかり悲しまないといけないし、しっかり怒らないといけない。そうしないと、そこで不条理に苦しめられている人たちの痛みを矮小化してしまうかもしれない。本当に苦しんでいる人たちに「苦しまなくていいよ、イエス様が共にいるからね」と言うのは慰めではなく、むしろ相手を傷つける。

私たちは、泣いている人の泣いている理由に寄り添わないといけない。イエスの「なぜ泣いているのか」は「泣かなくてもいいのに」というだけの言葉ではなく、「あなたが泣いている理由は、実は私はよく分かっている。でも私が共にいるよ。気づきなさい、思い出しなさい。それを乗り越える力をあなたに与えるから」そう言われているような気がする。それをマリアは体験したのだと思う。

イエスの復活を史実・科学的事実として受け入れられない人もいるかもしれない。構わない。大切なのは、神の愛、神の救いを形にしていくことを教え、それ故に神の子とさえ呼ばれるイエスが、今も私たちの中に生きているということ。例えどんな困難、闇の中にいても、光が戻って来たと確信できるのが私たち。だから泣いていたマリアはやがて「わたしは主を見ました」という告白に変わっていった。最も暗い悲しみの中で、「光はついえていなかった」「神は私たちを見棄てていないということに気づいた」という喜びの宣言だった。

希望を確認する者でありたい。今このときにこそ「私は主を見ました」と告白する者でありたいと思う。

 

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