礼拝説教要旨 「すると、鶏が鳴いた」(ヨハネ 18:1~19:30)

3月24日
受難節第6主日/復活前第1主日
棕櫚の主日

ヨハネによる福音書 18章1節―19章30節(新約P.203)

説教 平良愛香牧師
「すると、鶏が鳴いた」

 

ゲツセマネの園でイエスが逮捕され、大祭司のもとに連れていかれたときのこと。大祭司の屋敷の中庭でペトロは門番の女中に「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言われ「違う」と答える。その後人々が言う「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」。ペトロは再び打ち消して「違う」と答える。ところがまた別の人がペトロに言う。「園ではあの男と一緒にいるのをわたしに見られたではないか。」ペトロはまたもや打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

実は13章36節でペトロが「主よ、あなたのためなら命を捨てます。」と言ったとき、イエスは答えた。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

ペトロが3度イエスを知らない、と否定することを、イエスは分かっていた。イエスは、自分が信頼している弟子たちから裏切られ、全ての人が私を見捨てる、ということを、痛みと寂しさと、そして一人で抱えなければならない恐怖を感じていた。私について来るということが、いかに大変なことか、みんな裏切って当然である、そういったことをイエスは感じ取っていた。この物語の中で、私はどこにいるのだろう。

イエスの生き方に感銘し、イエスのように生きていきたいと思うことは多い。神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する生き方をしたいと思う。けれど問われると、あまりに出来ていない自分に気付く。本気で平和を実現したいと考えても、現実の前にあまりに無力であることを突き付けられて、「何をしても無駄です」と思ってしまうこともある。自分の適当さや偽善っぽさに後ろめたくなったりもする。しょせん私はこんな限界のある人間ですから、と開き直ってしまうことも。

イエスはそれを、とっくの昔から知っている。知りつつ、命がけで私たちを愛してくださっている。私たちがへこたれないよう、落ち込んで終わってしまわないよう、死を越えて共にいてくれる。マタイ26章75節には鶏が鳴いたとき、ペトロはイエスの言葉を思い出し外に出て激しく泣いた、と記してある。自分は大丈夫だと思っていたにも関わらず、こんなにももろかったこと、けれどイエスはそれを含めて全てを知っておられ、かつ私を見捨てようとはしなかったことに気付いて、自分の愚かさを包み込むイエスに気付いて泣いたのだなあと思う。

落ち込むのでもなく、開き直るのでもなく、決して私たちを見捨てないキリストが苦難の道を歩んだことを覚え、祈りのうちに過ごしたい。

 

お知らせ

*出会いのグループの開催日時が変更になりました。2024年1月から奇数月(隔月)第一日曜になります。スタート時間は今まで通りです。次回は5月6日です。

*教会員のみなさまには8月から献金当番をお願いしています。受付ボードに担当日の一覧表が貼ってあります。ご確認ください。

*教区、地区集会のご案内が届いています。教会の受付または集会室入り口のチラシラックをご覧ください。

2024年3月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31