礼拝説教要旨 「三十八年の苦しみ」(ヨハネ 5:1-18)

2月4日
降誕節第6主日

ヨハネによる福音書 5章1-18節(新約P.171)

説教 平良愛香牧師
「三十八年の苦しみ」

 

ベトザタの池のほとりで38年間も病気で苦しんでいた一人の人間の苦しみ。それは病気の苦しみだけでなく、誰も助けてくれない、という孤独を感じる。そこに通りかかったイエスの「良くなりたいか」という言葉は、あまりにも絶望の中に長くいて、神にも人にも見捨てられたと感じていたその人に、「良くなりたいと思っているのか、本気で治りたいと願っているのか、助けて欲しいのか」という問いかけによって、「治りたいんだ」「良くなりたいんだ」「誰か助けて欲しいんだ」という気持ちを呼び起こさせようとしたのかもしれない。

イエスは、治りたいと思ってない人は治していない。助けを求める人に、癒しの力を行使している、そのように読むこともできるのかもしれない。求めなさい、というイエスの言葉が思い出される。

「水が動く時、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」これは、自分が良くなれないことの言い訳でもある。「ほかの人が先に降りて行ってしまう。だからわたしは良くなれないのだ。」救い主、イエスから問われているのに、その問いに気づかず、良くなれない言い訳を考えてしまう。そして、自分は価値の無い者だ。良くなれなくて当然だ、と思い込んでしまう。

でも嬉しい事にこの話、「わたしは救われる価値がない」と言い訳をしたこの病人に対して、イエスはさじを投げない。助けてと言えないほどの苦しみに中にいる人に、「でもあなたの心の奥にある悲鳴が私には聞こえている」そんな行動に出る。立ち上がれずにいるのをいつくしみ、「苦労してきたね」と憐れむ。それは「良くなりたいか」と問いかける前から、私たちに注がれているまなざし。

そしてイエスは、言い訳にしか聞こえない私たちの、声にならない声、返事になっていない返事に最後まで耳を傾ける。そこでイエスが聞いているのは、文字面の言葉ではなく、私たちの深いところにある飢え渇きである。それを理解したイエスはこう語る。「起き上がれ、床を担いで歩きなさい」。水も、池も、手助けしてくれる人も、先に降りて行ってしまう人も関係ない。イエスの口から癒しの言葉が出るとき、癒しが実現する。

苦しんでいる者と共にあり、立ち上がらせてくださるイエスが、いま働いておられる。私たちも立ち上がらせてもらうと同時に、痛み苦しみの中にある隣人とどう生きるのか、イエスに問われている。いちゃもんをつけるのでなく、傍観者になるのでもなく、一人のひとのいのちのありようを私たちも共に喜ぶものでありたい。そのイエスに従う者でありたいと思う。

 

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