11月19日
降誕前節第6主日
出エジプト記 2章1-10節(旧約P.95)
説教 平良愛香牧師
「モーセ」
モーセの話は長い。出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の終わりまで続く。エピソードも多い。けれど今日、今年ここを読んだとき、やはり「約束の地」とは一体どういう意味なのだろうかということを考えさせられる。それが、現在のイスラエルでありパレスチナであることを考えた時、神は何を誰に与えようとしたのだろうかと考えさせられる。アブラハムやモーセらが神に導かれてたどり着いたのが現在のイスラエル・パレスチナ。イスラエル政府や一部のユダヤ教徒たちが「ここは私たちが神から与えられた土地であり、パレスチナ人の土地ではない」と言うのは、アブラハムやモーセが神からそう約束されたからということが根拠になっている。その信仰はとても強い。けれど大切なことを忘れてはいけない。
アブラハムやモーセは当時、周りから脅かされている弱者であり、旅人であり、寄留の民だったということ。だからこそ、そんなあなた方を神は決して見捨てず、守るのだ。「私はある」と宣言する神が、あなたの側にいる。だから恐れるな。それがアブラハムやモーセが受け止めた神からのメッセージであり、「弱いわたし(たち)を見捨てない神が共にいる」という信仰によって旅を始めた人たちだったということ。それは、その土地を侵略して、そこに住んでいた人たちを追い出せ、という神のメッセージではなく、「いまあなたが抑圧に苦しんでいるのを私は知った。だから導くのだ」というメッセージに他ならない。
今イスラエルではそれが逆転していることが悲しくてたまらない。神はいま「あなたに土地を与えたのは、戦争するためではない。私の愛するすべての者が、何にも侵害されず生きていくためである。それを思い出せ」と言いながら怒り、泣いているのを感じる。
それでも、世界中で多くのユダヤ教徒が、この戦争、イスラエルによるガザ地区への攻撃に反対しているというニュースも入っている。ともに神の平和を叫び求める者でありたい。神の「約束の地」は、奪い取るものではなく、神がすべての人を愛し、ともにおられるということを確信できる場所である。その約束を信じて平和の到来を待ち望みたい。