11月12日
降誕前節第7主日
創世記12章1-9節(旧約P.15)
説教 平良愛香牧師
「アブラム75歳の出発」
アブラム(アブラハム)がのちに信仰の父と呼ばれたのは、神に逆らわなかった人間だったからではなく、神と格闘しながら、口答えしながら、ときには神の守りを忘れて人間的な判断で行動して失敗したりしながらも、それでも神の指し示す方向を目指していったからだった。
12章で神がアブラムに対して言う。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」。そしてこの神の言葉に従ってアブラムは旅立ったということが書かれている。しかもそのとき75歳。そんな高齢のアブラムが、どうして旅に出る決心をしたのだろう。
今回この聖書箇所が当たって、改めてどうしてアブラムは旅に出たのだろうかということを考えてみた。
一、神の命令だからイヤだったけど逆らうことができずに旅に出た。
二、神の命令だし、とくにイヤではなかったから旅に出た。
三、イヤとかイヤじゃないとか関係なく、神に言われたから旅にでた。
四、神に言われたのだからと、喜んで旅に出た。
どれも違う気がする。アブラムの話を美しい信仰の美談とする必要はないし、主体性のない話でもないだろう。アブラムは旅立つことができたのは、神との信頼関係だったのではないか。神は必ずいいものを与えてくださる、というご利益ではなく、たとえ神が約束してくれた土地や子孫に出会うことがなかったとしても、それでもいい。神が私を用いて何かをしようとしている。そういった信頼関係、希望があったのではないか、と思う。理想すぎるでしょうか。
でも私たちも同じ。神を信じたら病気が治るとか、神を信じればご利益があるから信じているわけではない。神がただ私と共にいる。私を用いようとしている。もしかしたら苦難があるかもしれないけど、神はいつも共にいてくださる。この信頼、この希望が、私たちの信仰なのではないだろうか。
神が約束してくれたから、私はそこを信じて生きる。これは、現在の私たちの姿でもある。「あなたが示した生き方を進みます。だから道を示してください。間違ったら軌道を修正してください」そう言いながら、私を決して見捨てないと宣言した神の思いを確認する。
神の約束は必ず実現する。それは私たちにとって、希望であり、喜びであり、力である。神の導きに従って、進んでいきたい。