礼拝説教要旨「水をくぐる」(ヨシュア 3:1-17、ルカ 3:15-22)

1月8日
降誕節第三主日

ヨシュア記 3章1-17節(旧約P.342)
ルカによる福音書 3章15-22節(新約P.106)

説教 平良愛香牧師

「水をくぐる」

 

イエスの公生涯の初めの物語はイエスの洗礼。ヨハネのところにやってきて洗礼を受ける。4つの福音書に共通しているのは、イエスが洗礼を受けたときに聖霊を受けた、ということ。この証言は、イエスの公生涯のスタートは、聖霊が一緒だった、神の深い関与があった、ということにほかならない。

モーセに率いられてエジプトの地を離れたイスラエルの民は、葦の海の中にできた道を通ってエジプトから解放されていく。モーセの亡き後、後継者のヨシュアによって今度はカナンの地に入るときに、イスラエルの民はやはり水の中に現れた川底の道を通っていのちを得て行く。もしかしたら、モーセが手を差し伸べたときに現れた道を通る行為よりも、ヨシュアに言われて一歩目を水に踏み入れる行為のほうが、より命がけに感じるかもしれない。

この「水をくぐった」という行為が、キリスト教の中では洗礼の持つ意味と重ね合わせて読まれてきた。水によってわたしたちは象徴的に一度死に、そして新たな命を生きるということになると考えている。大切なのは、水の量や方法やあるいは信仰深さなどではなく、水に入って一度死に、水をくぐって新たに生き始めるということ、それが洗礼。

洗礼については様々な考え方があり、教会によってもかなり理解が異なったりもするが、「儀式」である以前に、むしろ、私たちが神からいのちを与えられている、ということの表明にほかならない。洗礼はゴールとか目的ではない。「ああ、私は神さまからいのちを与えられたのだ」「このいのちを新たに生きよう」という気づき、その表明、そしてそう生き始めること。それは自分たちの存在の本質に関わってくることなのだろうと思う。

「洗礼を受けましょう」と言うのは簡単。でもそれだと、既に受けている人には関係なくなってしまうかもしれない。洗礼という儀式を経ているかどうかでのその人の価値が変わることでもない。そうではなく、「わたしたちは神に生かされている。聖霊が注がれ、聖霊よってに生かされている。だから今、新しいいのちを生き始めるのだ」という確認、決意こそが、実はイエスが示した洗礼なだと思う。

 

お知らせ(2023年1月22日週報より)

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