礼拝説教要旨「なぜイエスが洗礼を?」(マルコ1:9-11、ヨハネ一5:6-9)

2022年1月9日
降誕節第3主日

聖書

ヨハネの手紙一 5章6-9節(新約P.446)
マルコによる福音書 1章9-11節(新約P.61)

説教 平良愛香牧師

「なぜイエスが洗礼を?」

 

洗礼者ヨハネは悔い改めのバプテスマを人々に呼びかけていた。イエスも洗礼を受けた。悔い改めが必要だったのだろうか?

実はこの聖書箇所は昔々から多くの信徒たちや教会を悩ましてきた。解釈は実に様々。ただ、マルコ福音書はイエスの洗礼を大切なことであり、「神の子イエスキリストの福音の始め」として洗礼を記録した。それは明らかに、「神に従う者として生きる」という表明から始まった、ということ。そしてもっと大切なのは、そのときに天から、霊が鳩のように自分に下ってくるのを見た。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。という記述。ここに大きなヒントが有るように思う。

私たちが信じていること。それはイエスキリストが示してくださった神の愛。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というこの言葉は、実は、イエスを先頭に、すべての人に語りかけられている神の言葉であるに違いない。神に愛されていない子はいないのだから。その言葉はイエスが語り始める前に、まずイエスに降り注がれたものだった。

「わたしは神さまの心に従います」そういう表明をしたときに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が聞こえる。さらに言えば、洗礼を受けようと受けまいと関係なく、神はあなたを愛されている。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、全世界に対して語りかけられている。

イエスの洗礼は、「罪の悔い改め」といった個人の出来事ではなく、神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語りかけているという事実を、公にする出来事だったのではないかと思う。わたしたちの洗礼も同じ。もちろん「罪の悔い改め」という部分もある。でも同時に、わたしを含めてこの全世界が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられていることに気づく瞬間でもある。

洗礼を受けて、キリスト者になる、ということは、個人的な出来事に終わらない。わたしは、神に従い、そして、この全世界が神に愛されている世界であることを信じるものとなる、ということ。この全世界が、いま神の愛が形になっていないなら、それを形作っていく一人一人となっていくこと。イエスがそれをなさったように。イエスがその方法を示したように。