礼拝説教要旨「マニフィカート」(ルカ 1:36-56)

2021年12月19日
クリスマス礼拝
降誕前第1主日/待降節第4主日

招詞:イザヤ書 40章9b-10a節(讃93-1-19)

聖書

ルカによる福音書 1章36-56節(新約P.100)

讃美歌21 242・179・256・259

説教 平良愛香牧師

「マニフィカート」

マリアによる賛歌「わたしの魂は主をあがめる」(マニフィカート・アニマ・メア・ドミヌム)。ここで使われる「魂」は、「私のすべて」「私自身」という意味。哲学的に言えば「私の実存」というほどの重い言葉。マリアは「私は全存在をかけて、神は偉大だ」と喜び歌い始める。実はこの歌、神が「力を振るい」「打ち散らし」「引き降ろし」「高く上げ」「満たし」「追い返し」「受け入れ」「忘れない」という、神の荒々しささえ感じる歌。神はただ座って人間を眺めているのではない。実力行使をする存在である、ということ。

しかも、小さい者、弱い者、蔑まれている者、排除されようとしている者、苦難と悲しみの中にいる者には、愛、慈しみをもって行動するだけでなく、尊大な者、強い者、権力のある者、富める者、圧迫をする者、虐げる者には、正義をもって打ち散らし、引き降ろし、追い返すという。まさに神の愛と正義は、人間の上下関係を逆転させる力を持っているという宣言でもある。マリアは全存在をかけて、それを「喜び」「神は偉大だ」と歌った。

実はマリアが処女のままイエスを身ごもり、産んだ、ということは聖書には明記されてない。天使がマリアに告げたのは「身ごもっている」ではなく「男児を産む」だったし、「聖霊によって身ごもる」というのも、王子さまなど、神の祝福が特別にある懐妊を表す言葉として用いられていたことがあった。「おとめが男の子を産む」という予言が成就したとも書かれてあるが、元の言葉では「若い女性」という意味しかない。マリアが「処女のままイエスを産んだ」という解釈もできるが、むしろそこに価値を置くのではなく、「神の子を産み育てるという覚悟」や「こんな不条理な世の中だけど、神は実力行使で上下逆転を起こしてくれる」という信仰こそが素晴らしいと感じる。

実は「マリアはローマ兵に乱暴されて身ごもったという噂が当時あった」という文献が残っている。ただのでたらめな噂話だったかもしれない。しかし、米軍に支配された沖縄に生まれ育った私から見ると、軍隊に支配されていたユダヤの国では十分にあり得る話だと感じる。いずれにしてもそのようなレッテルを貼られた可能性のあるマリアが「身分の低い、このはしためにも、神は目を留めてくださった」と言うとき、それはただの謙遜ではなく、低い者とされてしまったという生の声だったのかもしれない。そんな不条理の中で、「神は見捨てない」と信じたマリアの信仰。「それでも実力行使で平和は到来するよ」という希望が語られたのがクリスマスである。