礼拝説教要旨「選ばれたダビデ~神は心を見るのか?」(サムエル上 16:1-13、マルコ 10:17-27)

2021年11月21日
降誕前第5主日

聖書:サムエル記上 16章1-13節(旧約)
マルコによる福音書 10章17-27節(新約)

説教 平良愛香牧師

「選ばれたダビデ~神は心を見るのか?」

 

サウル王の後継者を探すサムエルは、神の声を耳にする。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」そして巡り合うのがダビデ。このダビデはさまざまな業績によって評判を得、後に王となるが、神はダビデの心を始めから読んで、「この男は申し分のない、心の清い存在だ」と選んだのではなかった。ウリヤの妻バト・シェバを手に入れたくなり、ダビデは作戦を立ててウリヤを殺したというとんでもない物語が続く。のちに激しく後悔する場面も出てくる。はっきり言ってダメ王。

では神が「主は心によって見る」と言ったのはどういうことだったのか。ダビデは弱さを持っているけど、根は清く美しい人間だ、本気で悔い改める心を持っているから私は選んだ、と言っているのか。

実は「主は心によって見る」という言葉には、主は人の心を見る、という意味も読めるけど、同時に、主は主自身の心でその人を見る、とも読める。人間とは違う基準を神は持っている。たとえどんなに弱く、そして誤ちを犯すであろうダビデをも、神は神ご自身の心で良しとした。人間の側の努力や心の清さではなく、ただ神の意志によって選ばれているということ。ダビデは心が清いから選ばれたのではない。神が「この人を選ぶ」と心に決めたから選ばれた。

では選ばれなかった人は不幸か。そうではない。神は人間の基準ではなく神の基準ですべての人を「選んで」いる。使命を与え、それを実現できるように、力と勇気と知恵と希望を与えてくださっている。私たちは「ダビデがいい人だったから選ばれた」のではなく、「わたしも神に、神の心によって選ばれている」ということに気づかねばならない。そして「どう生きるように神に求められているのか」ということを問い続ける。その生き方を全うできるように、道を求め続ける。

たとえどんなに失敗しても、わたしを選んだ神は、「オマエを選んで失敗したよ」とは思っていない。「あなたを選んだ。」という。尻込みしたくなるときもある。そのとき、突然イエスの言った、あのマルコによる福音書の言葉の意味がつながって来る。「人間の力でできることではないが、神にはできる。神はなんでもできる」

神さま、どうして私を選んだの?私に何を求めておられるの?教えてください。