礼拝説教要旨「イスラエルの人々でさえ聞こうとしないのに」(出エジプト6:2-13 ヘブライ11:27-29)

2021年11月14日
降誕前第6主日

出エジプト記 6章2-13節(旧約)
ヘブライ人への手紙 11章27-29節(新約)

説教 平良愛香牧師
「イスラエルの人々さえ聞こうとしないのに」

 

キリスト者である私たちは、神の約束は確実だと分かっているはずなのに、あまりにも闇が濃く続いていると、「このまま夜が明けないのではないか」と思ってしまう。正確に言えば、「明けない夜はない」と知ってはいる。でもいつしか、「それは今ではない。きっといつか夜は明けるだろう、でも、今すぐではない」と考えるようになってしまい、待っているようで、待たなくなってしまっている。ただ時が過ぎて好転するのを待っている気がする。積極的に待つことは難しい。

モーセはイスラエル人の子でありながら、エジプトの王子として育てられた。しかしある出来事から逃亡生活をする中で神と出会い、「わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出しなさい」と言われる。

ところが、話はそう簡単ではなかった。「モーセは人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」モーセが最初に苦悩したのは、イスラエルの人びとを説得させることだった。目の前の労苦に押しつぶされそうになっているとき、その耳には約束の言葉さえ届かない。いつか神さまが救ってくださるだろうと思っていた人々も「それは今ではない」と感じていたのではないか。モーセは思わず神に言う。「ご覧の通り、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオがわたしの言うことを聞くでしょうか。」

けれど最終的にモーセは動き出す。神が「わたしはいる」と宣言した。その出会いが、モーセの中には力として生きている。「さあ、今行きなさい」と神が言うとき、それに対して「今じゃないでしょ」とは言えない。神が「今」というなら、今なのだ。

実はモーセも完璧な人間ではない。よく泣き言も言っているし、ブチ切れる場面もある。信仰者というのは、「穏やかで、勇気があって、いつも正しい選択ができる」とは限らない。ただ一つ言えるのは、神が私を用いて何かをなそうとしておられる、という希望、神は見捨てないという確信だった。

私たちにとって、今は暗闇だろうか。そうかもしれない。それでも私は神の救いの声を聴き取りたいと思う。今、モーセの歩んだ道に私たちも招かれている。神は確かに私たちと主におられる。そして、あなたを導くという約束を神は決して忘れない。少しずつクリスマスが近づいている。